個性って要するに何なん?
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学校という社会で、集団行動を学びまする、日本人。
協調性こそ素晴らしい。助け合うのが望ましい。ずっと押さえつけられる、個性。
そして、社会に出るときに突然聞かれます。
「あなたの個性は何ですか?」本当、なんということでしょう!
無理くり繰り出しました個性を必死にアピールし、結局、集団を重んじる会社に入ります。
要するに、なんなの、個性って。必要なの? 通知表にすら、協調性の評価をされとったよ、わしは?
そんな中、ずいぶん個性的になりました、ハココ。
個性的というか、変わったひと。ただの変人。個性的とは、違うか……。
いやでも、ハココの個性とはなんじゃらほ?
うーむ、実際よくわかってないけれども、でも、いまの自分嫌いじゃないってことが、最も重要だって、思うのだよ。
というか、そんな中、問答無用で、妙な言葉が「個性」だって、されたりしました。
最近の、いや、少し前からの、流行のやつです。
「障害は個性です」
はあ? だよね。本当に、はあ?って、キレ気味に、はあ?ってなるよね。
そんな話をしようと思います。
障害は個性です?
「障害」は「個性」である。
大真面目にそう唱え、認め合い、支え合い、助け合い、生きていく、共生社会。
障害者とは、社会が作り出した「障壁」によって、隔てられている人々。
ハココは、現在「精神障害者手帳2級」を所持(っていうのかな?)していて、障害者ってなっているのだけれども(一時、1級のときもあった)。
でも、これが「個性だ」とか、そんな言われよう、違和感しかない。
個性とは……
個人に備わった、他の人とは違う、その個人にしかない性格・性質。
個物または個体に特有な特徴あるいは性格。
というな定義があるのだが、障害は個性にあたるか、がここで話したい事柄。
「個性を尊重する」「個性を伸ばす」というように、肯定的に捉えられる「個性」というものなのだけれども。
障害は、確かに、「その人に備わった他のひととは違う点」ではある。良くも悪くも「特徴的性質」である。
ただ、それを、「個性」と認めるか、認めないか、認められるか、障害に大きく関わる方々から、当事者の方々から、そんな奇麗事じゃない!との声もある。とにかく、もう、本当に疑問に思わざるを得ない言葉なのだ。
障害があるということによって、日常に不都合があるのは事実でしかないのだから。それは、社会があろうとなかろうと、多分変わらないし、確かに、社会の中にいると不便は大きくはなる。けれど、だから障害者なのだ、とは思わない。
そして、個性といえば、どこか良いもののように感じるのだけれど、だれが見たって「その特徴が素晴らしいもの」とはきっと思われないだろうこと。語弊があるかもしれないが、簡単に言うと、歩く事ができないことを、すごい!とか、一般的に言うことはいないだろうこと。
それを、あなたの個性だからと、認められたことに心地よく感じる人はおそらくいないだろう。
個性だとかって言わせたってね、障害の事実は何にも変わんねえんだよ!!!
ってか、個性なんて言いかえてさ、そのひとの欠落をみんなでにこやかに指摘すんな!!(って思いまするは、ハココだけかしら……)
障害は個性。それは障害者側も言うことは、まああるかもしれない。でも、それは便宜上、だ。
個性という言葉を使えば、多少認められやすいから、偏見を少しは減らせるかもとか。そういうところで、出てきた言葉かもしれない。ただ、現実、不便なのだ。不便な事柄が障害なのだ。健常者中心の社会では障壁にぶち当たるから、障害なのであり、不便であるから、障害と診断されるのだ。障害が個性と言う考え方は、健常者に障害は普通に存在するもの、と言うイメージを定着させるためには有効な言葉だとは思う。しかし、あまりに現実と乖離している。
仮に、社会が作り出した障壁がなくなったとき、障害者はいなくなるのか?
障壁があるから、障害者。でも、きっと、障壁がなくなったって、根本的に、なにかが隔てる気がしてならない。
個性としての障害
「できなくてもいいの。だって、それがあなたの個性だから」
障害者も、健常者も、違和感があるだろう言葉ではないだろうか。しかし、驚くほど、よく聞くことになった言葉。
まるでそのひとのことを肯定するかのようで、貶しているようで、馬鹿にするようで。健常者の一部には、そうやって「甘やかされる障害者」に嫌悪を示すひともいる。
この言葉は「がんばらなくていい」の言い換えになる。「がんばる必要がない」と。
そりゃ、どんなに努力しても、身体的特徴などでできないことは存在するのは事実。それを「努力してどうにかしろ」というのはおかしな話。けれど、それと「がんばりたい」と言う気持ちや「意欲」は別であるし、「できなくてもいい」と言う言葉に気をよくして、がんばらないことを正当化してはいけない。
障害でできないと言うことに直面した人には、少しの希望を持ってもらうため、この聞こえのいい言葉は大切だと思う。ポジティブなイメージ。前向きな言葉。けれど、本当にその部分を受け入れられるかどうかは別問題。個人にとって受け入れがたいものであることも多いそれを「自分の一部」と思えるのかどうかは別なのだ。周囲が個性個性と押し付けたって、納得しがたいことはある。
障害はそのひとにとっての一部でしかない
「障害者の個性」は「障害そのもの」であるかのような考え方をされがちである。一番の特徴で、その人そのものであるかのような言い方。
障害を持つ人と関わったことがあるひとは、そのひとをそんなもの(障害)ではかるのだろうか。否である。障害はそこにある事実でしかなく、その人の代名詞にしてはいけない。
その個人と関わりたいと思うのは、障害とは別の、一生いることが心地よいと思わせる別の、本来の個性に惹かれたからだ。
個性であるから素晴らしいは幻想
例えばなのだけれど、運動神経があまり良くないことを気にしているひとと、それを小馬鹿にするひとがいるとする。割と幼い頃はこの図式は多く見られるだろう。
それを「走るのが遅いのはお前の個性だもんな!」と言ったとして、その光景は楽しそうに映るだろうか。
この本心は分からないとして「走るのが遅いのは個性である」とは言っているけれど、個性だと言ったところで「走るのが遅い」ことは何も変わらない。自分のひとより劣ったところを指摘されたに過ぎない。個性という単語を付け足されたとはいえ、自分の気にしている点を指摘されることに何ら変わりはないのである。そこで「認めてもらえた」なんていうふうに前向きにとらえるか「悪口を言われた」ととらえるか、あなただったらどちらだろうか?
これが逆なら、個性という単語をわざわざ付け足さずとも、そのひとの素晴らしい点であり、誇るべき特徴であり、そのままで個性であると認められるのだ。
個性と呼べばすべてが同等に素晴らしいものになるかのようなイメージは、幻想でしかない。
障害はただの事実
障害は事実でしかない。その障害が不便であることにも変わりはない。
個性と言えば、大変なことではないかのような印象を与えられるかもしれない。その印象は希望にも見える。
そう発した人は、優しさだったかもしれない。大したことではないんだと、その個人にとっての占める割合は小さく重大なことではないんだと、言いたかったのかもしれない。けれど、現実、障害と言う事実は不便でしかないのだから、好きになることは難しい部分なのだ。どんなに努力しても、現代では手に入ることのない健常者という立場や心身にあこがれているのなら、個性だなんて簡単に言われたくはない。
それがあることで、ひとによっては、生活すらままならないのだ。常に助けてもらわなくてはならないのだ。やりたいことをあきらめたり、普通ならできて当たり前のことすらできなくて、悔しい思いをするのだ。
個性なんて言葉で、それまでの苦悩や苦痛、その思いすべてを片付けられるのは、納得いかない。
確かに、事実として、障害がなくとも、困難は降りかかる。
障害であるから降りかかる困難もあり、障害者で無いから降りかかる困難だってある。けれど、障害者は、弱者と呼ばれ、マイナス地点からのスタート。同等に行えるようになることはないかもしれない。
障害者は、障害を受け入れない限り、生きていくのは苦しいものに思えるだろう。受け入れる、とは言っても、それがけして容易でないこと。受け入れたら平気かと言われても、不便であることを受け入れるのは、多くのことを諦めることである。
確かに、社会が変われば少しはマシになるかもしれない。福祉制度や、医療や、社会の認識や、施設など。けれど、理想的な、素晴らしく、やさいい、多様性の共生社会を本当に作れるかなんて、疑問でしかない。
社会の発展は、現在AIの登場により加速しているかもしれないが、ひとの意識がそんなにも簡単に変わるだろうか。生活が変わるだろうか。現代の、ひとが会社に出勤し働く、ひとがかかわり合って暮らす、リアルの世界で会うこと、そこで経験を共にすることが素晴らしいものである、この形態である限り、そのひとが障害者であることは、変わらないだろう。
人間が、現在の認識での人間らしい暮らしを、人間らしいと定義する限り、変わらないのではないか、と思う。
この辺は聞き流してもらって構わないのだけれど。
何を言っているんか、よくわからないかもしれないけれど、ネットの発達は仮想世界の発達でもあって、その中では理想の姿、理想の自分を生きられる。ただ、それは、本当の自分ではないでしょう?と、絶対に誰かが言う。
これから、世界はきっと、大きく変わるだろう地点にいる。
世界中の人と、自宅で、いろんな経験を共有するようになるかもしれない。言語の壁もなくなるかもしれない。移動すら必要なくなるかもしれない。すべてが、バーチャルで事足りるようになるかもしれない。
それは、もしかしたら、希望でもあるかもしれず、けれど、現在のわたしたちは、現実でそれを体験することに価値を感じる。
その価値ある体験をすることができない立場にいる人間。それが、障害者であると、わたしは考える。
障害があってこそ感じられたものや価値あることもあるだろう。けれど、得られることがけしてないものがあるのも事実。しかも望んでそうなったわけではないのだ。
たくさんのことを諦め、そうして、これが自分なのだ、と思う。
前向きに、そう言える障害者が、どれだけいるだろうか。
ただ、一部の、障害を受け入れた人々は、割り切って、個性だと言うかもしれない。
できないことがあったからこそ、できたこと。それを探し、磨いた人々。
障害があっても幸せだと本当に思えるなら、個性ともいえるかもしれない。それでも、本人が言うのはかまわない。大変な努力をして手に入れた己の価値を認める心や、その自分が個性だという発言であるから。
それでも、他人がさも分かったかのように、理解があるかのように、軽々しく、優しいフリで、「個性だよ」なんて言ってはいけない。
そんなわけで、あなたの個性は?
障害と個性を同格に並べて話をすること自体、本当はすごく嫌。
けれど、共生社会を作りたいって言ってるえらーいひとたちが「ただの個性だから」って、そんな考え方で、共生社会なんて作くれる訳がないと思う。「たかがそれくらい」なんとかなるって、思ってるなら。
個性って言えばなんでも受け入れられるほどに、健常者って、優秀なんでしょうか?
そんなにも寛大で優しくて美しくて強くてやわらかくて広い、心とか、思考とか、感性とか、所有しているんでしょうか?
えらーいひとは、現実を知らないからね。取り繕って良い感じに見せた上辺を見ただけで、わかった気になって、決めたことだろうから。
そもそも、「個性」って言葉は、そんなに必要なものだったのかな?
違うことがそんなに大事かな?
個性がないと、まるでつまらない人間みたいに言われてしまうって、変だと思わない?
全然そんなことないのに。
ひとはそもそもみんな違うもので、どことなく似ているし、でも、どこがどう違うかなんて言葉に出来ないとこだってあって、もはや「個性」って言葉に踊らされてる気がする。
みんな違ってみんな良い。は、いつの間にか、みんな違わなきゃ全然ダメみたいな感じになって、誰もが無理にでも個性を見つけなきゃいけなくなってる。つまらない人間じゃない、優秀なんだ、個性くらいちゃんとあるって。
うまれて、生きている、それだけで、個性がそこに存在しているのに。
ハココは思うに、個性についてって、そんなに意識しなくていいことじゃないかなって。
自分がどう思おうと、他人は絶対に違う考え方と感じ方をしているから。まったく同じであることはあり得ないから。個性って生きているだけで、すべてのひとに備わっているものだから。
それこそ、障害の有無だって関係なく。
そして、結局のところ、個性があるとかないとか、そんなことより、自分のことを自分で認めてあげられるか、それだけのことで「この自分で良いのだ!」と、本気で自分が思えている場合、本当にそんなのどうでもよくて、究極の個性になっていくんだと思う。
最後に
どうしたって、もう、自分として生きることしか出来ない現代で、自分が嫌いな人は、障害があっても無くても、いつの時代に生きていても、どこで生きていても、生き難い。
ハココは、最近、本当にしんどいだろうひとのつぶやきというか、魂の叫びに、なにひとつ、答えることも出来ないでいて、そのひとたちから見たら、わたしなんか全然つらくもなんともないに部類されるだろうなって。ハココはたった二十年やそこらで苦しいなって思っただけで、もっともっと長い間、もしかしたら生まれてから死ぬまでずっとずっと苦しいかもしれないって、そんな中にいるひとたち、生まれ持った障害だったり、生まれてきたその環境だったりで障害を負ってしまったひとたちの世界は、いま現在が、本当につらくてたまらないのに、本当に何も言えないなって。
そのひとに、その世界に、寄り添うことは、並大抵のことではなくて、でも、そのひとにとっては現実として、そのひとの周りには二十四時間、ずっとその世界があって、付きまとっていて、目と閉じたって何も変わらなくて、そこにいることしかできなくて。
そういう世界にいるひとに、それが「個性」なんて、絶対に言いたくない!!
でも、そのひとが排除される世界は、たぶん健常者たちの常識の中では「正常」な判断になる。
健常者たちの「正常」な判断が、そのひとを「異端」としている。
それが、現実として存在していることが、たまに、とてもつらい。
続く…