障害者差別の正体
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障害者に差別的扱いはしてはいけません。と、決まっているらしいです。
なぜって、障害者は、社外が作り出した障壁があるから障害者だからで、本人は悪くないからです。
人間助け合いましょうねって、素敵美し綺麗な素晴らし理念なんですよ。
そもそも、なぜ差別がいけないことなの?
差別をしてはいけません。常識として、そうなっていますが、みなさんはどうしてそうなのか説明できますか?
差別を受けたひとが嫌な気持ちになるから?
みんな同じ権利を持った人間だから?
差別的態度はいけないと決まっているから?
これくらいしかないです。差別はいけない、というけれど、どうして駄目なのかと聞かれたら、「理由なんて要らない」という感じに、その理由を教えてはもらえずに育ってきませんでしたか?
ただ、単に「差別はいけない」とだけ、何度も何度も教え込まれてきませんでしたか?
ひとは平等だからとか、みんな同じ人間だとか、そんな作文を書かされたり、標語を作らされたり、学校の方針で、障害者施設や老人ホームへ慰問に行かされたり、そうやって刷り込もうとされてきませんでしたか?
で、なんですけれど。そうやって教え込まれた結果、あなたは差別をしない人間になりましたか?
おそらく多くの人が、差別はしない、と大嘘をつくでしょう。真面目な顔で言うでしょう。本人は本気で自分はそうだと思っているかもしれません。けれど、差別しない人間なんて、そんな簡単に出来上がったりはしません。
だって、人間は差別する生き物です。他人より優れたところが欲しいと思うのが人間らしさです。優越感は心地よく、劣等感は気持ちよくありません。
そもそも、人間は特別っていう考えのもとに、この地球に生きている生き物で、快適を欲するがゆえ、優劣感情も原動力に文明を進化させたのです。
他人と比べて、優れている部分で安心したい、そういう本能のようなものがあります。
生物として、優れた遺伝子を残したいという思いは、愛だとか恋だとかに縛られても、現在だって残っているでしょう。
比べて進化をしてきたのに、差別はいけないなんて、ひじょーに難しい問題なのです。
してないとは言いつつ、差別は必ずしています。誰もがそうです。
障害者と関わっていても、障害の当事者でも、みんなしています。
それでも、差別はしていないと言い張り合って、そういう(差別などしない)人間として認識されていることを、お互いにを確認し続け取り繕うのが社会です。
差別する人間はダメだ、そうお互いに言い合って、こっそりしっかり差別はする。そうして差別は存在し続けます。
障害者を差別する理由は「障害」なのか?
そもそも、障害者は障害があるから差別されているのか?というところに躓いてしまっているのは、ハココだけでしょうか?
障害者が嫌い。と堂々と発言している方の中には、生産性がない、価値がない、迷惑かけるだけの存在、という人権まるで無視のご意見ももちろんありますが、これらは一旦置いておきます。
それよりも、ハココが注目するのは、わがままだ、自己中心的な発言しかしない、ひとを振り回して謝罪もない、助けてあげたのに感謝もしない、なにかと障害を盾にして卑怯、と言った、つまりは障害以外の個人の態度、人間性(ここでは人間性と書きますが、語弊のある言葉であると認識します)についてのことがあります。割と多いです。
とくに、感謝と謝罪がなかった、からなんか嫌な思いになったりした系のもの。
要するに、ひとを思いやれない行動、言動をするのが嫌なのだ、ということです。
それに、障害者に傷つけられた体験、性的な犯罪行為を相手の障害を理由に泣き寝入りすることになった、とか。だから、障害者はズルい、と。傷つけられた私という存在は無視の、周囲や社会の対応。それが加害者を守るものであること。課外事実すら有耶無耶になってしまうこと。
これについては、また別の難しい問題で、また今度の機会に話したいと思っています。
ハココが見てきた中では、同じ種類で程度の障害者であっても、差別されるひとと、差別されないひとがいました。それは、そのひと本来の個性の問題でです。卑屈なひと、わがままなひと、傲慢な態度のひと、感謝と謝罪をしないひと。それは、障害の有無なんて関係なく好きになってくれるひとは少ないでしょう。
たとえば、その態度や言動を、こんな障害を持って生まれてきたのだから仕方ない、とにかくつらいんだからそれくらい許してよ、などと正当化するようなひとは本当に好かれません。それこそ、障害云々以前にです。
障害があろうとなかろうと、みんながそれぞれに、様々な大変さを抱えています。なのに、障害者だからもっともっともーっと、とにかく想像できないくらいに大変なんだ!と主張されては、受け取りにくいものでしょう。
障害がなければ、あれができた、これができた、思うのは勝手です。憧れるのも自由です。でも、障害の理由に夢を諦めたことを、まるで自分だけが不幸なんだというように語るのはいかがなものでしょうか?
確かに、障害がなければ叶っていたかもしれないし、叶わない結果は変わらないかもしれないし、障害がなくても夢に挑戦できるとは限らない。
健常者と呼ばれるひとには、健常者であるがゆえの苦労や苦悩があります。
障害者の方の中には、健康な心身を持っているのだから、それくらいいいじゃないか。私もその苦労がしたい。健常者としての苦労ならどんなことでも耐えられる。などという趣旨の発言をしたりするひとが、たまにいらっしゃる。
ハココ、声を大にして言いたいことが、ありまする。
障害者たちよ、健常者を理解する努力をせよ!
というのも、現在、叫ばれているのは、障害者への理解ばかりです。
障害がどういうものか知ってほしい。少しだけ配慮をしてほしい。大変なときには手伝ってほしい。
そうして、健常者たちには、障害者への配慮や手助けを当然のようにできるひとでありなさい、という教育をされますが、それがどういう事柄なのか、どういう感じがすることなのかは教えてはもらえないで、どうしたらいいか困惑している状態で、出来ないでいることを責められている気がしてしまいます。
そもそも、知らなにひとに声をかけることはとても勇気がいります。障害の有無なんて関係なく、誰に対してもです。それを、相手が障害者であるならさらりとやりましょうなんて、なんてハードルの高いことを要求するのだ!
障害者が普通に心を持つ人間であるように、健常者も普通の心しか持ち合わせていません。
障害者っていうものは、どうも健常者たちを過大評価しているように思うのです。
彼らは極々普通に、弱く、臆病なのです。優しさも持ち合わせてはいるのですが、勇気が足りないのです。
相互に理解不足であるのが現実
健常者と呼ばれるひとたちには、障害を持つひとたちの気持ちや、苦労や、苦悩や、経験や、そういったものはわかりません。
当然です。自分にその障害は現時点ないのですし、有ったこともありません。でも、それがどんな風な感じがするのかを聞いてはいけません。デリケートな問題で、話したがるひとも少なく、障害者に障害について話させるのはタブーである、そんな感じです。
それに、彼らは障害を持ったひとたちをじろじろ観察するように見てはいけないのです。だって、差別的扱いととられてしまうから。大丈夫かな? 困ってないかな? そうチラリチラリとこっそり伺うしかできないのです。じっと見たら、嫌な気持ちにさせてしまうかも、と怖いのです。
そんな健常者たちのふり絞った勇気。チラチラと見守り伺う視線ですが……。
なんかチラチラ見られて嫌だな。気づかれないように見ようとしてるのかな。物珍しがって見る人がいるから嫌なんだよなあ。
なんて誤解してませんか?
もし視線を感じたときは、自分を気遣ってくれている、そう思うことにしましょ?
それに、見られているのは悪いことばかりじゃないですよ。見られているあなた、いま確実に安全です。それから、こういう障害を持ったひとが、この付近を利用することがあるのを、知ってもらえたということです。
一方、障害を持ったひとたちはと言うと。
もちろん好き好んで障害を持っているわけではないですから、受け入れ難くもあります。健康であれば……そのたらればを、考えるなと言う方が無茶な話です。障害者たちが望むのは、なにも誰もがうらやむすごい才能や容姿を持って生まれることではなく、ただの初期装備です。五体満足で、生活に耐えられる体力と、ごく普通の知能と、四肢の自由と、目が見えて、耳が聞こえて、声が出て、文字が読めて話せて、臓器の機能も正常で、一般的な生活を自分で送ることができること。
もう、それさえあれば、幸せだとでも言うように。
ところが、環境的要因で、初期装備は揃いつつも、苦労と苦悩しかないひともいます。頑張っても報われないことばかり経験したり。心無い言葉を浴びせられたり、酷い扱いを受けたり。
そんなひとはときにこう考えます。
障害でもあれば守られていたかな? いいよな、障害があるだけであんな風に、生きてるだけで価値があるとか言ってもらえるんだ。羨ましい。
背景を知らずにその言葉だけを聞いたら、当然障害者たちは起こります。
なんにもしらないで、なんてことを言うんだ! 障害が無いからそんなことを言えるんだ!
けど、障害者がそんなことを言うのは、障害があるからだけではないと思うのです。
要するに、健常者のことを理解していないからではないか、そう考えます。
そして。不毛な争いになるのです。
障害者はいいよな。障害があるってだけで人生イージーモードじゃん。支援も生活保護も障害年金ももらえるし、働かなくても責められないし、犯罪だって見逃されたりするんだ。安い給料なのに税金はしっかりとられて、お前らの生活ウハウハかよ。なんたる理不尽。金返せ。
(こちら、よく見られます内容です。障害をよく理解できていないのです)
自分のことしか考えられない人間なんですね。障害者の気持ちなんて知らずに、勝手なことを言いますね。
(そういうあなたも、そもそものそのひとのことをなにも知らずに全否定はいかがなものかと)
そういう態度がマジムカつく。障害者ってそんなに偉いのかよ。俺らに何してくれたって言うんだ?何のメリットも無いのに配慮してくれって、ずいぶんな態度だよなあ。
(その通りですが、あなたも何もしていないですよね? 自分が収めた税金の一部を勝手に使われたという考えですが、税金の使い方に疑問があるなら政治に言うべきことです。税金の使い方を決めたのは、国民の代表たちで、あなたも選んだことになっています。選挙の末参加は関係ありません)
人間は生きていること、それ自体が素晴らしいのです。ひたむきに障害と向き合って生きている方に失礼だとは思いませんか? ひとの価値に障害なんて関係ありません。
(とても素晴らしい考え方です。が、そのいい方は、まるで相手は何事にもひたむきではないとの決め付けと、障害者の努力ほど美しい姿はない、と言った誤解すら与えます)
綺麗事だな。なんもわかってないのはお前らだ。守られてぬくぬく育って、できなくても当然で、甘やかされて、うらやましい限り。現実を知らないで、社会も知らずに、言いたいことだけ言って、本当に幸せだよな。
障害があるということがどういうことか、本当にちゃんと考えたことがありますか? そうしたことがあるなら、そんなことは言えないとはずです。
(つまりはお互い相手のことを考えられていないのですから、どちらが正しいとかすらないです)
障害を理解できない健常者と同じで、障害者は健常者に対する理解があまりにも不足しています。
健常者が障害を理解できないのと同じで、障害者も健常者がわかりません。障害があるのだから、健常者のことは理解できなくて当然、障害者としての世界しか知らないのだから、と思うなら、障害についてを理解されないことは当然でしょう。
つまり、健常者が障害を理解できないのは、健常者の世界しか知らないのですから当然なのです。
それは、障害を知ろうとしないからだ、と思うならまず、障害を持つあなた、健常者のことに詳しくなってみてください。自分事としてとらえてみてください。考えて、感じてください。
障害を持っているのに、それだけで大変なのに、健常者のことを知って、なんて自分が惨めななのかを知れというのか?と思いましたか?
もちろん、違います。惨めでも必死に生きている、健常者の姿に心打たれてください、ということです。そして、健常者たちの現実に、その見事なまでに肥大化した、健常者であれば人生は素晴らしいに違いない、という思いなんか、捨ててしまえたらいいと思います。
相手を理解しようという気配さえないそのひとを、あなたは理解したいと思いますか?
それはお互い様でしょうが、しかし、立場からして、ここは障害者側が譲るべきと思いませんか?
そうです、常識として。
だって、理解してほしいと思うのは障害者側です。そして、実は健常者は障害を理解できないままでも、それほど困らないのです。残念なことに。
人生が素晴らしいかなんて、自分次第でしかありません。その考え方の問題。
誰もがうらやむ環境でも、幸せじゃないと思う人もいるし、他人に、なんてつまらない人生だ、と言われていても、本人にとってはこの上なく素晴らしいものであるかもしれない
わたしは、出来ないことだらけで価値もないと、排除されて、蔑まされて、悲しいことばかり。
これは誰の台詞でしょうか? 障害者? 健常者?
きっと、どちらもそう嘆いているのです。同じ言葉で、嘆いているのです。
それを、障害者はまるで贅沢だとでも言うような態度を取ったり。そういうところが、気に入らないって思われている気がするのです。
どれもこれも、自分の障害が憎いから。健康体が羨ましいから。
当然のこと? でも、健康体の何たるかを知らないあなたに、勝手な思い込みで羨ましいと言われたら、嫌な気持ちになりますよ。障害を理解しないでものを言う知ったかぶりの健常者さんに腹立たしく思うのと同じことです。
違います? だって、立場が違うから? 障害者と健常者じゃ全然違う?
そうです! 違うんです!
人間は、みんなが、だれひとりとして同じではなく、ぴたりと重なるように同じ人間なんて、いるはずがない。そして、だれひとり、その本人になることも、その人物と丸っきり同じ感覚や感性は持ちえないのです。
それこそが、個性ってやつじゃないですか?
違うのに、同じだと言ったり、同じなのに、全然違うと言ったり。お互いがそうやって理解不足で、擦れ違い。それではいつまでも、溝は埋まらないとは思いませんか?
まずは、障害者さん。あまり言ってもらえないことですが、ぜひとも健常者への過大評価をやめましょう。過剰なあこがれも捨てましょう。
そりゃ、できないことはできるようになってみたいです。障害のない人生を生きてみたいです。でも、それではいつまで経っても、前には進めないです。
障害がある事実は変えられないのだから、そこにあるものの中で、最大限の心地よい人生を送る。
それ以外にはできないと、認めなければなりません。辛いことです。悔しいでしょう。でも、本人すら受け入れられないものを、赤の他人には認めてもらおうなんて、なんか矛盾じゃないですか?
それも、健常者ならできて当たり前なのですか?
けれども、残念なことに、簡単に自分以外を尊重することができないのが、普通なのです。
健常者なんて、ただの普通のひと、でしかないのです。普通に、弱くて、小さくて、脆くて、壊れやすくて、儚いのです。大したことはできないのです。臆病なのです。誰もがそうなのです。
とはいえ、理解され難し
上記では人間性、という言葉を使いましたが、それは普通のひとが思う人間性です。
たとえば、思考、感情、行動が抑制できるひとたちにとっての、人間性。でも、それができなかったりするのも、障害であったりするから、どうにも、難しいですね。
障害者は、その障害ゆえに、たとえば感情の抑制ができなかったり、気持ちを表すことが上手くできないことに常に自分に対して苛立っていたり、そしてどうしようもない怒りの表現が暴力になってしまったり、それらによって加害者的な立場に陥り、排除される、ということもあります。
できないことはしょうがない、といって済まされる問題でもなく、暴力になってしまっては、さらに周囲から孤立していきます。
でも、それに実はとても苦しんでもいて、できないことに誰よりも苦しんでいるのは、当事者かもしれない、ということを頭の隅に、健常者の方、入れて頂けたら、と思うのです。
当たり前にできることが当たり前にできるという、誰もが持っている当たり前にできる事柄の概念は、障害を持った方にも理解出来て、自分がその当たり前をできないということに強い劣等感を抱き、自らに失望し、絶望しています。その自分を受け入れることも出来ず、苦しんでいる。
当たり前という概念を理解しているからこそ、苦しいのです。できて当然であることが存在し、それができない自分がいることを知っている。必死に、死ぬ思いで普通のことが普通にできる自分になろうとしている。どんなに頑張っても、普通になれない自分を、隠そうとしたりする。ふつうのひとになりたいと、ふつうの真似をしても、ふつうになれないままの自分がいつか見つかってしまう。できないことを責められる。何度となく体験した、みんなの普通と違う自分、それをなじられる経験ばかりを積んでしまったがゆえに、排除しようという相手をなんとかしなければと、いつの間にかそうするには暴力という行動しか残されていない可能性もある。
とはいえ、暴力で解決するのは、駄目です。それは、自分を傷つけて相手を黙らせることも同じ。あなたのせいで私は傷つきこうしたのです、というのは脅しです。脅迫です。
たしかに、理不尽になじられてきたように感じるかもしれません。どうがんばっても、どんなに頑張っても、誰も認めてはくれなかった。
苦しい、つらい、でも誰もわかってくれない。
提案できることがあるとしたら「あきらめないでほしい」それだけです。
そして、いつかのだれかのため、自分が生きていることに意味があることを思ってほしい。
いまは理解されないで苦しいだけかもしれない。でも、その苦しみがいつかの世界を変えることになるかもしれない。
だからぜひ、苦しいと、訴えてください。
そして、逃げてください。あなたを害するひとと無理をして付き合う必要はない。
逃げるというより、そんなひとは捨ててください、が正しい。
もし、それがいまできるのなら、そうして、できなくてもそうする機会が来るのを待って、そして旅に出ましょう。本当の自分を知る旅に。
もちろん、こんなの綺麗事です。
逃げられるわけがない。何も変わりはしない。そう思っているなら、行動なんて無駄にしか思えないでしょう。でも、知ってもらわなければ変化は訪れることは絶対にない。
けれど、一生懸命なにかを訴えれば、ほんの少しの可能性が生まれるかもしれない。
実際、0%と1%では、どちらもそれが実現する可能性はとても薄く、無いに等しいです。
けれど、0を1に変えることが、一番難しいところであるのも事実ですよ。
無が有になる。それは大きく違うんです。
社会が変わる前のいま、障害者ができること
障害という概念は社会が生み出したもの。つまりはその障壁こそが障害の正体である。
共生社会っていうやつで、障害を差別することがない社会では、みんなが生き生きして暮らしているらしい。障害者も生き生きとするらしい。
確かに、自分と同じスペックの人間しかいなければ、障害にはならない。
みんなが自分に合わせてくれれば、障害と認識せずにいられるかもしれない。
でも、そうしてもらってももやもやするだけである。
意図的に合わせてもらって、それで満足できるだろうか?
自分以外はそれでは満足に値しないことを知っているのに?
自分はみんなと違うこと、誰より自分が理解して、それが不便であること、誰よりも知っているのに?
本当に、差別さえなければ、生き生きと暮らせるでしょうか?
障害者が生き生きと暮らせないていないのは、社会だけの問題なのでしょうか?
障害者自身には問題が全くないかのようで、戸惑いを覚えてしまうのは、ハココだけでしょうか?
社会が差別するから障害者は輝けないんだなんて、ずいぶんな過小評価じゃないですか?
健常者に何とかさせますから、安心してくださいね、とは。
本当に、なんて障害に配慮してくれた素晴らしい言葉なのでしょうね?
正直、ハココは自分が障害者であると強く認識していたとき、それが社会のせいだとは感じていませんでした。個人として能力がないことを理解したし、配慮されてもそれに変わりはないのもわかる。
本当に、個人としてしっかり向き合うべき課題だと感じていました。
社会が良くなかったんですと言って優しくされて、なんて生きやすい世界!と思いはしない。
生きにくいと感じるのはハココ個人の心であり、社会に思わされていることではないから。
この考え方すら、個人モデルと言われる古い考え方なのでしょうか?
個人としての努力をひたすらに追求することもなく、社会に配慮されるのが当然と思う人間で本当に良いのかな?
社会が作った障害に隔てられているから障害者と呼ばれる存在になっているのだと、憂うことがするべきことなのかな?
社会からの好意的な配慮も障害者であるから当然のことなのかな?
そもそも、社会が優しいなら障害者は自分のことを好きになるのかな?
生き生きと暮らせるようになるのかな?
障害のある自分を受け入れる
自分が持っている障害について考えて考えた結果なのだけれど。
障害を誰より障害と感じているのはやはり個人の心でしかない。
社会に差別されたから障害になったわけじゃない。社会が受け入れないから障害に感じたのではない。
不便を感じれば、障害は余計に意識することにはなる。けれど、社会が変わったって、変わらないものもある。
そうは思いませんか?
人間としてできるはずのこと、できることが大人の当然であること。理解できて然るべきこと。言われなくても普通は分かること。それらができないということ。
それを誰より理解しているのは、当事者です。誰よりも困り、誰よりも劣等感を覚え、苦しんでいる。
ハココはそうでした。できない自分が苦しくて、つらくて、悲しくて、嫌で、自分が大嫌い。
その上に、こうも思っていました。
社会で習った国民の義務が果たせない自分が権利ばかり主張するのは道理じゃない。権利は義務を果たすから得るべきだと(少なくともハココはそう)言われたのに、それをせずに生きている意味などあるだろうか? 主張していい権利などあるだろうか? それなのに、何もせずに権利が認められる自分の存在とは? 渦巻く疑問。
ハココは、たったの一度の労働も、それに伴う納税もしたことがない。少子化に貢献できる機能はあり提供も可能ではありながら、実際問題不可能であること。
「生きているだけでいいのよ」
そう言われる側の空しさを知っているだろうか。ひとに求められて、応えることができて、自分に価値を感じるのは障害者であっても同じなのに、その言葉に幸福を感じなければいけないとは、なんて悲しいことでしょう。
配慮すべき存在と言われて、配慮していただけたから社会の中の自分に価値があると思える訳じゃないのに。
生きていくことに不便と感じる施設がなければ、社会からの配慮があれば、生き生きと暮らせるわけじゃない。確かに不便は減るだろう。でも、それだけでは、生き生きなんてできるはずもない。そう思いませんか?
必要と言われることに、社会での価値を見出せたり、生きていたいと思えたりするのでなないですか?
配慮はしてもらえたとしても、心から誰かに必要と思われることがないなら、社会の中で生きていることに満足などしないし、偽善で必要と言われても仮初であるから満足できない。そう思いませんか?
「生きているだけでいいのよ」
そう言われて気がラクになるひと、そういうときもあるとは思います。
けれど、その言葉だけで自分の意味を本当の意味で見出せるはずもないのです。
「充分つらいんだし、これ以上つらく思う必要はないよ」
ハココはそれを納得できる人間でいたくないと考えます。それは、辛い境遇への配慮が有り難くない、ということではなく、努力を怠る理由にしたくないということです。
社会が作った障害の概念の正体が何なのかをしっかり考えることもなく、配慮させることを受け入れる存在でいたいとは思わないのです。
やさしくされると、疑っちゃうのかな……。溜息。
優しくしましょう。配慮しましょう。差別はいけません。それこそが社会がすべきことで障害者のためになることなのです。
配慮したら障害者の問題解決。みたいな感じでなんか違うってなりませんか?
周囲の配慮があれば問題解決するのは、多くの場合、身体的な問題のように思います。それに付随する心に、根本的な解決はなにひとつもたらさないのに。
社会の配慮を受ければ、社会とうまくやっていけるかもしれないって、社会がハードルを下げてくれるから、みんな安心できるって、それはまあ、そういう面はあるかもしれませんが……。
社会全体の問題なのだから、社会に生きようとする個人の問題であることに変わりはないのです。
その個人には、障害を持ち、配慮される側も含まれれいるはずです。
個人だけでの解決ができないのは確かで、社会の配慮があることは実際にとても素晴らしいことだと思う。そのために仕事が増える方もいたり、そういった不満をいなして育てなければならない、難しいことを、人類はやろうとしています。
けれども、結局、個人の、自分自身の障害についての理解と、自身がそれを受け入れること、それしか障害者が生き生きと暮らす道はない、と思いませんか?
差別を受けたから、あなたが障害の存在が疎ましく思うわけじゃないでしょう?
自分にはないものを持っているひとが羨ましいから。健康であれば自分もああだったはずと思うから。
自分が嫌いでいるということほど、苦しいことはありません。自分が憎い存在であること、それほどに辛いことはありません。
障害があることは変えられない事実。変えられないのに、それをくよくよ悩んでいのは、社会に生きるひとと違うから? でも、社会が配慮してくれたって、直截的な差別がなくたって、違うことは意識せざるを得ないことに、変わりはないじゃない?
降りかかる困難は、なにも障害を持ってしまうことだけではない。障害だけが、特別つらいこと、じゃないのに、一番不幸な私は本当にかわいそう、って嘆いて一生を過ごすのですか?
障害者は、障害以上の辛い事柄を、認めがたい。障害がない自分を想像して、叶えられない夢を見て、絶望的になって。障害さえなければ……という思いはなかなか消えません。
体の一部を失ったとしても、社会での中でちゃんと生きていければ、その気持ちは軽減されるかもしれない。でも、本当の意味で、生き生きとするのは、社会のがんばりだけでは出来ないことです。
結局、個人の問題となって返ってくるのです。
その共生社会とやらの環境が整ったとき。
障害者、もしくはその一個人が、社会にとって本当に必要な存在になっているか、本当に大切に思われているか、好かれる存在になり得ているのか、それらは個人の問題に立ち返るのです。
社会のせいだ。障害のせいだ。そんなことを言っていないで、自分ができる範囲の、精一杯の努力をしなければ。さもなくば、結局、居場所なんてどこにもなくて、あなたがあなたの人生をかわいそうにして、それを嘆き続けることになるでしょう。
障害者による障害者差別
あの障害よりはマシ。あの病気は本当に無いな。あんなに酷くなったら終わりだな。
そんな、障害者同士の格付け、カーストの話ではありませんよ(それもかなり問題だとは思いますが)。
とにかく、ここでは障害者というフィルターの存在について、話したいのです。
障害フィルター補正効果とは
どんなに活躍しても、障害者なのにすごい。という言葉から逃げられない現象のことです(命名ハココ。もっと良い名称ありませんかね?)。健常者にも障害者にもそのフィルター補正は自動でかかってします。すごいことを、障害者なのに、すごい。と褒められる。障害者とは思えない。と称えられる。
客観的に、健常者よりも成果を出したとしても、すごい障害者、と呼ばれる。障害なんて関係ないんだな、といつまでも、障害を前提とし、一旦障害者の部分を通しての賛辞になってしまう現象。みんなが誉めてはくれるが、不名誉に感じざるを得ない。正当な評価と思えない。
健常者が、健常者に混じって活躍した障害者を誉めるときは、必ず、障害者であるという視点を印象付ける。障害なんて関係ないってことですね。と言いつつ、障害があるから取り上げたというようなコメントをされてしまう。
そして、障害者たちは、そのひとの活躍を見て、障害があってもできるということを示してもらえて勇気をもらった、自分も障害をやらない理由にはしないと決めた、障害に負けず頑張ろうと思えた、あなたのような障害者が世界や社会を変えるのかもしれない、などというコメントが来るのです。
障害者からも、障害者であるからの評価を受けることになる。障害など関係なく活躍をしたはずなのに、障害者が活躍しているという話になってしまう。
そもそも、そのひとが健常者であったら、もしかしたら取り上げられなかったのかもしれないし、障害者でなくても取り上げられたのであれば、障害者たちがその活躍にこれほどまでに関心を寄せなかっただろうこと。
これが、障害フィルター補正効果、です。
要するに、障害者は、障害者としての扱いをどこでも受けているし、評価にも、賛辞にも、きみに障害があるとは思えない、だとか、必ず障害がついて回ることになり、でも誰にも悪気なんて無く、みんな本気でそう感心しているから、なおのこと厄介な問題なのです。
差別しているつもりなんてなく、正直にそう思い述べていて、でもそのひとが健常者であれば、ただ素晴らしい活躍をしたひととして紹介されるだろうに、なんと障害者なのです、という付属品と共にの評価なのだ。
まず、ふつうに考えてマイナスの出発。
健常者であるかのように同様に扱われるようになるには、はっきり言って、かなり高いハードルがあって、健常者と同じくらいのことができてなきゃいけないと言うか、健常者と同じ舞台で戦ったら、並の健常者よりできなくてはならない、となってしまう。
障害があるというのにそれはハードルが高すぎると不満に思いますか?
ですが、実際にハードルは高いのです。障害者が健常者と同様の評価を得るには、健常者から見た常識で「すごい!」と「障害なんか関係なく感動する」ことが必要なのだ。
なかなかできる様子だと「あいつは障害があるのにすごいな」で、普通でしかなければ「やっぱり障害者だな」と、障害というフィルター補正が常時適用設定で、他のひとの視界に映ることになる。
誰も悪意なんてない。でも、ここには、障害者は健常者より劣った存在、障害者はできなくて当たり前、という共通の認識のもとにある。わざわざ、障害があっても、とか言って評価するのは、障害者も健常者も同じなのです。
それは、本人が強調してほしいと言ったかもしれないし、それこそ、社会に根付く障害者差別への挑戦状のようなもの。そして、障害者たちにあきらめないで、と伝えるための手段。健常者へ障害への理解を促すためにと、必要なことなのかもしれない。
障害者は挑戦を怖れる。できないとあきらめている。その理由のひとつは確かに、社会が障害に対応し切れていないからです。でも、そもそものところ、自己評価が低く、できないと思い込んでいることが大きいと思うのです。
できることすらできないと、思い込んでいる。その思い込みを解くには、できた!という体験しかない。けれどその成功体験すら、できないはず、という本人の思い込みと関わる人の思い込みによって、なされないでいることが、できないことを増やしていく原因にもなる。
そして、ひとは自分が当然できてしまうことに対する評価が低い傾向にあります。その当然できることが、他人には難しいことだったりする。
障害を持ったひとたちの、独特な発想だったり、ときに集中力の高さだったり、簡単な単純作業を黙々とこなすこと。マニュアルや指示をとにかく愚直に守る。
それらが強みに変わることもある。
けれど、そのことに気づけない。だって、自分は当たり前にできるから、健康な心身ならもっと次元が高い状態でそれができるに違いないって、思ったりする。
こんな自分に出来ることができない人なんていない。そう思っている。
誤解ですよ。
たいてい、普通を生きていると、単純作業が嫌いになって、苦痛になってしまったりするんです。変化がないことがつらくなる、変化を求める傾向になります。
その点、変化を好まない性質だったりが強みになることもあるんです。
いつかの世界のために
現在の障害者が理解されようとの努力をしても、すごく、ものすごくがんばっても、きっと、わたしたちが生きている間に、理想とされた世界、社会は整備されないだろうな、とハココは思っています。
がんばって下地を作れる程度ではないかな、と。
それに、残念だけれども、差別なき社会が完成することはないだろうな、とも思うのです。
受け入れられる障害、受け入れられない障害の差も出てくるだろう。この障害は有りだけど、これは無いな。なんて言われる。現在も差は存在するのだし、大きくなっていくかもしれない。
障害に寛容になっていけば、いままででも受け入れられたものはさらに簡単に受け入れられるようになるし、どうしても無理だと言われ、その地位というか、浸透度が上がらないものもどうしたってあるだろうことは想像できます。新しい障害も病気も発表されるかもしれないし、多様性多様性とみんな言うけれど、その多様性の社会の理想とする共生社会はとんでもなく難しいものです。
そもそも、もし弱者の本当を知らない、頭でっかちのえらーいおじさまたちが、弱者のためになることを考えるのは、どう考えても非常ひじょーに難易度が高いです。経験していないことに対して本当に役立つことは、提案できるはずがないのですから。
たとえば、子育てに本当に必要なことを、子育てに協力すらしていないひとにはわからないし、女性のことであれば、女性であるというだけでそのときに必要になることを理解して、ちゃんと提案できる、というわけでもないのです。
自分の経験していないことは、知識を得て想像するしかなく、けれどどんなに得た知識が多くあっても、想像は想像でしかないわけで。
男性同士でも男性についての認識が違い、女性同士でも女性のことで認識が違うのだから。
良い例が、妊娠。つわりは病気ではないのだから、家事くらいできる、甘えるな。たまたま働けていた女性に言われる。ときに実の母親に言われる。つわりは確かにつらいし、でもわたしは我慢できた、だからそれは甘えているだけ。
入院するほどひどいことだってあるのに、妊娠出産の経験のある女性ですらも自分の経験をもとにしか話せない。男性となればますます理解できない世界だ。「うちの妻が妊婦様になった」と言っている世の夫様たちは、我慢できるものだったという女性の経験だけを信じることにしているのでしょう。
ひとは信じたいものを信じるし、便利になったネットは、自分を肯定する内容ばかり選んで画面表示してくれるなんていう意地悪な親切を働く設定まであったりします。ますますそうとしか思えない世界になっていって、世界も、視野も、狭く狭くなっていく。
その上、自分がしっかりと経験したことは、それこそが真実であると自信を持ってしまう。けれど、自分の当り前は自分だけのものでしかないのです。
もちろん、わたしの、ハココにとっての当たり前は、ハココだけの当たり前でしかないですよ?
芥川賞を受賞した彼女は
文学界に障害者がいないということがどういうことなのか、考えてほしい。
そのように言った。ハンチバック。彼女は背骨の少なからざる問題を抱えながらも、読書と執筆を生活にしていた。ハココはデビューとなった賞をとったときから、文学作品として注目していて、ただ、経済的にも蔵書に使える場所の広さとしても問題があるため、欲しい本の全てを購入とはいかない。
とりあえず、図書館で借りて読む。本当に気に入って、この先何度も読み返す可能性があるなら、そしてその本を所有していたいと思うのなら、購入する。
予約の順番待ちの最中で、まだハココの番は来ていない。ネタバレは嫌なので、内容は詳しく知らない。
ハココは、その作品の公募先での賞が発表されたとき、読みたい!と思った。文学作品としてとても興味深かった。紹介されていた文章の一節がとても魅力的だった。そして、そこにはヒシヒシと生きることの苦痛を享受しつつも生きる覚悟という感じの、どこか攻撃的で鋭い刃物のきらめきのようだった。
ハココは健常者が書いた障害者が主人公の小説だと思っていた。けれど、彼女がその主人公の障害そのものを持っていた。彼女の言葉の切れ味は、その環境や自分が障害者であるからゆえに会得したものだったのか。
それでも、ハココはそれを、障害者の彼女が書いた小説だから読みたいのではなく、その文学性に惹かれたのだ。
実は、障害者が障害に左右されずに戦える職種が存在する。
「芸術」という分野だ。絵を描くこと、文章を書くこと、物語を作ること、詩を書くこと。音楽もそれに続くだろう。つまりは、自己表現の世界だ。
そこでは、障害があるからと不当に過大な評価をされることも、過小に評価されることもない。芸術はひとの心に響くものが正解なのだ。そして、障害者であることを告げる必要もなく、自分のやり方で自分独自の方法で、それらをすることがもちろん認められる。
有名な画家たち、音楽家たちに、過去の偉人には障害を持っていた人が多い。彼らは社会に馴染めない存在だったのかもしれない。
彼女は、自分が障害者であること、そうして得た経験や感情、感覚、感性、思考、それを小説に仕上げた。魂の叫びと言えるものだろう。
そして、障害フィルター補正を最大限利用して、社会に問題提起をした。
それでも、もし、その小説が大したことがなければ、彼女は作家として生き残ることもなく、障害者だから情けで取らせてもらった、所詮障害者、という評価になってしまうし、諸刃の剣での、受賞と問題提起だった。
強い女性に見える。けれど、本当の彼女のことを、わたしはしらないから、そう見えたのはハココの主観でしかなく、彼女にそれを押し付けたいとは思はない。
わたしは、公平に、その作品がおもしろいのか、主題が訴えるもの、物語が訴えるもの、文体が訴えるもの、そしてなにを考えさせる力を持っているのか、いつものように、読みたいと思って、図書館の順番を待っている。
読み終えたとき、感想を書きたい、たくさんのひとに読んでもらいたい、素晴らしい作品だ、そう思ったら、きっとこのブログにレビューを書くと思う。
続く …