「されど愛しきお妻様」 著・鈴木大介
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大人の発達障害を取り扱った本である。
しかし、発達障害に関わらず、あらゆる「障害」について当てはまることが書かれており、その読書は大変有意義な時間となった。
正直、本を読む事ができる環境や能力があるひと、すべてに読んでほしいと思った。
著書に書かれているのはある夫婦の歴史。発達障害の女性と出逢い、結婚した男性(鈴木氏)の視点でみたふたりの物語。そして鈴木氏がその生活の中で見えたこと、気づいたこと、考えたこと。
障害を持つ当事者を理解することの難しさ、そして支援者的立場であった、もともと社会的弱者に焦点を当てて取材を重ねていた著者ですら、本質は理解していなかったこと。理解したつもりになっているだけであったこと。
彼が理解するに至った経緯は、特殊であり、そうしてやっと理解と言ってもいい状態になれた。その特殊な状況とは、脳梗塞により高次脳機能障害に陥ったことだ。
先天的な発達障害の妻、そして後天的な発達障害となった夫。空中分解寸前の夫婦だった彼らは、いま現在、平穏と言える状態。しかし、妻は発達障害であることに変わりはなく、妻の生き方や価値観は何ら変わったわけでもない。生まれ持ったパーソナリティは変わることなく、そのままでしあわせに辿り着いた、それは奇跡的な偶然がたくさん重なって起きたこと。
夫の脳梗塞も、それによって夫が高次脳機能障害を経験したこと、その経験からくる気づき。
そもそも、その夫、鈴木氏は社会的弱者を取材し発表するというのを仕事にしている、フリーランスの記者であったこと。たまたまなのか、本人の趣向なのか呪いなのか、メンヘラと呼ばれる女性とばかりお付き合いしていた彼。そういう人物であったから辿り着けた「答え」であったのだろう。
理解したつもりで、まったく理解のできていなかったこと。自分の言動や行動がどれほど残酷であったのか。その懺悔も込めた、本書である。
高次機能障害になって、彼は発達障害の当事者たちと似た状況に陥った。
一度にひとつのことしか出来ない。レジでお金を払うことすらが困難。少し前のこと、ほんの少しの事柄を忘れてしまう。簡単なことの説明すら意味不明に思える。できて当たり前のことが、どう頑張っても出来ない。情緒も安定せず、感情が溢れて制御できない。それによって抱える、劣等感、絶望、自己否定。注意欠陥というか、どうにも気になることからどう頑張っても離れられないでいる苦痛。いままでできていたことができないでいる自分への失望とパニック。
それらを経て、彼は妻ができないでいることがどういうことかを理解していった。同時に、どうすればできるのかを考えることになる。できないことはできないと認めて、その上で、どうすればできるのか、どうすればできることが増えるのか。
以前の自分ならできるはずのことができない、ふつうのひとならできて当たり前なのに、どう頑張ってもできない。一生懸命にやっているのに、本当に頑張っているのに、結果としてできていないという状態。
それは、まさに、いままで彼の妻である女性がずっと抱えてきた問題であり、それによって感じる苦痛を彼女は生まれてからずっと持ち続けていた。理解されないために排除されてきた。
夫となった彼も、彼女が出来ないからと苛立ち、なじってきた。なぜこんなこともできないのか。なぜ、こんなにハードルを下げてもできないんだ。自分は難しいことなど要求していないのに!
その対象となった事柄を、自分ができないという状態になって、妻にとってそれがどういうことなのかを、本当の意味で理解したのだ。
そして、試行錯誤を繰り返し、手に入れたふたりでの暮らしは、快適で、平等で、協力して作る、楽しい毎日だった。
発達障害の定義と簡単な説明
ここで一旦本から離れて、発達障害についての説明的なもの、はさんでおきます。
一応知っていたらいいんじゃないかなあ、的なものです。
発達障害の定義
自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの。
自閉症スぺクトラム障害(ASD)
自閉症やアスペルガー症候群、広汎性発達障害などが統合されてできた診断名。英名のAutism Spectrum Disorderの頭文字をとってASDと略される。
主な特徴は、社会的コミュニケーションや対人関係の困難さ / 限定された行動、興味、反復行動 などで、感覚に関する過敏性や鈍感性を伴うこともある。
ADHD(注意欠如・多動性障害)
注意欠如・多動症 / 注意欠如・多動性障害とも呼ばれ、不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(思いつくと行動してしまう)といった症状が見られる障害。ADHDは、これらの要素の現れ方の傾向は、「不注意優勢に存在」「多動・衝動優勢に存在」「混合して存在」というように人によって異なる。
学習障害(LD)
Learning Disabilities、略してLD。全般的な知的発達に遅れがないものの、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算・推論する」能力に困難が生じる発達障害。困難さを感じる特徴によってディスレクシア(読字障害)、ディスグラフィア(書字障害)、ディスカリキュリア(算数障害)と呼ばれることも。現在の診断基準DSM-5 では「限局性学習症/限局性学習障害(Specific Learning Disorder)」という名称になった。
【誤解されがちなこと】
発達障害は「先天的なハンディキャップなので、ずっと発達しない」のではなく、発達のしかたに生まれつき凸凹がある障害。人間は、時代背景、その国の文化、社会状況、家庭環境、教育など、多様な外的要因に影響を受けながら、生涯をかけて発達していく生き物であり、発達障害の人も同様。つまり、成長とともに改善されていく課題もあり、必ずしも不変的なハンディキャップではない。
個人差はあが「障害だから治らない」という先入観は、成長の可能性を狭めてしまうだけで、周囲がその凸凹のある発達のしかたを理解しサポートすることで「ハンディキャップになるのを防ぐ可能性がある」という視点が一番大切なこと。
発達障害は一つの個性だから配慮は必要がないというのは、違うので適切に対応しなければ、生きて行くのも困難になる。
【支援について】
発達障害のひとの中には、本人任せにされるよりも、「きちんと教えてもらうこと」「きちんと止めてもらうこと」が必要な場合が多くある。一律的なやり方ではダメで、その人に合ったやり方を工夫しなければならない。その反対に、良かれと思って一方的に有名な訓練方法を取り入れても、本人が何に困っているのかきちんと把握しないままでは効果もない。培ったノウハウすら、どの部分が目の前にいる発達障害者に適切で、どの部分が不適当なのかはよく考えなければならない。
【まちの中で見られる行動への誤解】
発達障害の子も、家の中に閉じこもっているだけではなく、まちの中で様々な行動のしかたやルールを学んでいくしかない。だから、発達障害の子を連れての外出は、周囲への迷惑覚悟で、申し訳ないと感じつつでも、必要。騒いでしまって、迷惑に思う人がいようと、必要なこと。
発達障害の子供が騒いだり、パニックを起こしたりしているときに「何で親は厳しく叱からないんだ」と周囲をイライラさせてしまうこともある。しかし、発達障害の子の中には、少しの時間待ってあげる方が、無理に叱るよりもずっと早く混乱から抜け出すことができる可能性がある。
発達障害の子の混乱に対応できなくても「一時的なものでその内に落ち着く」と知識を持っていてくれるだけで、本人も家族もずいぶんラクになる。はず。
とはいえ、なかなかそうは思えないのが現実だろうし……。
難しいねえ。
とりあえず、本の内容、感想に戻ります。
発達障害も含め、障害の本質
鈴木氏は障害の本質について、いろいろと持論、考察を述べるが、どれもわたしにはすうーっと浸透した。
その障害を持ったひとは、社会的弱者であるのは事実でり、その存在は社会の被害者でもある。が、どうにも加害者的なものになってしまうものでもあること。
弱者が排除される過程には、その特異点が加害的になってしまった、という点を見過ごせはしない。それが暴力であれば、擁護も出来はしないが、多くの場合、理解がないことからくるものでもある。
けれど、加害的存在にしてしまうのも、また社会であり、その原因は社会的な常識、出来て当たり前という前提、そして社会が変化していくことにもあった。
発達障害は増えている? 現代になってうまれたもなのか?
現在、発達障害は誰もが聞いたことのある障害名として定着しつつある。
けれど、ひと昔前にはなかった概念だ。存在しなかったから? それとも放っておかれたから? 否。社会の様式が発達障害を持つ者、たとえばコミュニケーションが苦手だとか、そういうひとにとって過ごしやすかったから、問題にならず、障害ととらえられることがなかったからだ。
一次産業(農業)と二次産業(工業など)には、彼らはとても向いている。特定作業に特化し、そのことに集中し、淡々と黙々と作業する。それらは彼らにとって有利な現場だった。独自の感性から生み出される作品などが評価されることもあった。コミュ障でも無口な職人気質と好意的に見られた。
けれど現代はほとんどが三次産業(商業、サービス業)で、ひとと関わることが中心になってしまい、その中で彼らの特性は「障害」と認識されるに至ったのである。
鈴木氏のこの考察、わたしはその通りだと思った。現代になって急激に先進国で増えたのは、つまりはそういうことだ、と納得しかない。
他者の価値観も常識的で、普通で、一般的で、自分と同じだろう、という決めつけ。それが発達障害を「障害」たらしめたのだ。
要するに、現在障害とされていない特性すら、いつかの未来では「障害」と呼ばれるようになるかもしれないということ。
ハココは定型発達ではないかもしれない……の現実味
実は、ハココ自身、ひとに理解されない特性がある。
ただ、指摘されることはあまりない。なぜなら、ハココは中学の途中から、メンタルに問題を抱えたひとたちばかりと付き合ってきたからだ。変であるのが普通で当たり前の世界にいたから。
そもそも、先入観というものをあまり抱かない性質を持っていたため、色んな障害を抱えた人とフランクに関わってきた。
独り言に明け暮れて一日がを終わるひとをみても、そのひとが誰か特定のひとと話しているようなら、ああいるんだなあ、と思って見ていたし、喧嘩してたらその友達と喧嘩したかあ……。楽しそうなら仲のいい友達なんだなあ、と思う。
なんと言うか、その環境にいたがために、そのひとにとっての当たり前を尊重するベースが出来上がっていった。
わたしの友人の統合失調症の男性は、彼らの行動を、ツッコミをいれている、という呼び方で表現したり、他にも不思議なラジオの視聴者であります、本日もご視聴有難うございます、とか表現するひとも。
そういうひとに囲まれれ過ごすしていると、障害を意識することも少ないし、まるで本当に「個性」のような気さえしてくる。そのひとのオリジナリティあふれる行動を認めてもらえたりする場所だった。
社会に、ハココがそのままで出て行けば、明らかに変な人になってしまう。ハココは外出するとき、たくさんの防具をまとう。なんと言うか、普通のひとにみえるような効果をもたらす鎧だ。
独り言を言わないように、気を張る。ぴょこぴょこ動かないように、ペンギン的な動きをしないように。思いついたことをすぐに口にしないように。気になっても凝視しないように。キョロキョロとしないように。会話に関係のない内容は言わないように。
これらが完璧にできると、ハココはさもデキルヒトと認識される。
その姿を知っている友人はこう言っていた。
頭の回転が速くて、要領が良くて、知識も豊富で常識もあるし、気配りもできて、ひとの気持ちによく気がついて、ものを教えるのも上手いし、どんなこともそつなくこなせるし、話題も豊富で楽しいし、冗談通じるし、おもしろいし、有能で優秀で一緒にいて心地いい。難しいことも簡単そうにやってのけるから、本当にすごいな、っていつも思うよ。
いやはや……んなわけあるかい! こっちはすんごい大変なんよ! それをね、努力して装ってんだよお!
なにをおっしゃるうさぎさん? そもそも、頑張れば出来るってもんじゃないのよ? それなら誰だって出来るじゃん? ハココはすごいのよ?
あたしゃねえ、うさぎじゃねえ! ネコだ!(どうでもいい……)
ってか、誤解だから。マジで……。役に立たん人間なんよ? ポンコツなんよ? 本当よ?
なにをおっしゃるうさぎさん。だから、ネコだっつの!
などというやり取りをしましたねえ。うさぎの耳は確かに魅力的ですが、常にふむふむしているお口もかわいいし。でも、わたくしはネコの方がよいのですよ。などなど、まったく論点がズレていきましたね、そのときも(遠い目)。
ちなみに、その彼女……というか彼?(ノンセクなので難しい)が、現在どうしているのかはわからない。境界性パーソナリティ障害だった彼女は、何度となく死に近づこうと試みていたし、もしかしたら……とは考える。しかし、連絡の取りようもないので知ることも出来ない。家に遊びに行ったりもした。わたしが性被害に遭ったあと、あまりにガシガシわたしが辛い苦しいもうダメだ訴えてくるのが嫌だ聞くの疲れた、そう言って彼女(便宜上、体の性別で呼ぶことにします)はハココの前から去っていった。
仲が良くて、何でも話せる。そう思うと、ハココはとにかくおしゃべりになる。防具も脱ぎ捨て、素の自分でいられる相手と判断してそう接していると、離れていくひともいる。ハココの特性を更に面白く感じてくれる人もいるけれど、大抵、有能優秀居心地のいいハココの方が人気である。まあ、当たり前なのかもしれない。
ちなみに、半年付き合いました、ハココの元恋人さんは、ハココのぴょこぴょこする動き、ペン化(ペンギン化)してしまうこと、買い物時でさえ独り言が標準であるハココに、それは外ではやらない方がいい、家の中ではいくらでもやっていいけど、外でそれだとみんながビビる。という助言をくれた。それは、ハココとの将来を考えていたからこそだった。一時しか付き合わないひとは、面白がったりして、楽しそうに見ているだけだから。
つまりそういうこと。一時だけ付き合うなら気にならないし、面白がれる。けれど、一生と考えたときにはあり得ない行動を、ハココは通常はずっとしているのである。
そんなハココ、この本に出てきます、彼女様のちお妻様。
もうね、ものすごく理解できる。いや、ハココは一般的にできて然るべきことは、やろうとして頑張ればだいたいのできる。ただ、頑張れば、である。とても頑張るとできるのだけれど、とーっても頑張らなければできないことなのでひじょーにしんどい。そして、それを通常とにすることはできない。常時できるようにすることができない。
しかしながら、ハココはその彼氏様のためになら常時できるようになりたいと思ってしまって、できる、頑張ればできる! と頑張ってみようと思ったけれど、駄目だ、やっぱりできないな……と気づいてしまって、自身に失望して絶望して、別れたくなってしまった。そして、ご立腹させて別れることになりましたが、いまも彼のしあわせを願っています。友達じゃダメですか? ハココはそんなわがままを彼に言いましたが、難しいですね、男女って。
話がそれましたが、お妻様のネーミングセンス、ハココと似ています。何でも歌ってしまうことも。朝にどうしても起きられないことも。片付けが苦手だったり、気になったことに夢中になって集中しすぎて周囲がわからなくなったり、本来やるべき事ができていなかったり。
そして、自分が気にならないからと、やっていないことについて、母にたくさんの小言を言われて過ごしていますことも。気にならないのは、無視しているからとか、ということではなくて、本当に気にならなくて、気づいてすらいないからなのです。
わかりやすい例が、ハココがものを失くすことが得意で見つけることが苦手なこと。失くそうと思っていないし、そこに置くことにしたとき、ハココはここに置くのがベストと本気で思っています。けれど、その場所を忘れてしまい、大捜索になります。ベストな場所に置いたのに、なぜ?とハココは思いながら探して、一向に見つかりません。が、ハココが既に探し尽くした、ハココが思うベストな置き場候補から、母が見つけて、あるじゃない。ちゃんと探しなさいよ。と言います。ハココはちゃんと探しました。よく見ました。しかし、ハココはそれを在ると認識しなかった。結果、見つからなかった。
きっとハココは、認識すること自体が苦手なのだと思います。だから、本気で気づけない。本気でやってできないのに、サラッとやってできる母を見て、なんとも言えない気持ちになります。
母は言います。ご飯作るくらいしなさい。洗濯くらいしなさい。もう少し片付けなさい。せめて朝起きなさい。生活のリズムを整えなさい。早く寝れば早く起きられるでしょう?
ハココもわかります。その方が生活として良いものだろうことは。人間的な生活だろうことも。一般的に普通であるだろう、とも理解できます。
しかしながら、ハココは早く寝ても遅くに寝ても、起床時間に変化はありません。気力の問題。やる気の問題。と言われイライラさせ続けています。
でも、普通の生活に必要な事柄は、ハココの中でかなり優先度の低いことに設定されてしまっていて、その設定を変えることも出来なくて、ハココも困っています。
優先度が低いから、苦手だから、すごく頑張らないといけなくて、でも頑張ればできるのだからと、やってみる。そうしてすごく頑張ってやった結果、ハココは数か月後にはメンタルが駄目になります。
まず、最低三日間は寝込むことになります。一日のうちに一度だけ起きて、トイレに行って、水分を摂取。あとは昏々と眠り続けることになります。それだけの三日間以上を過ごすことになります。
ただ、ハココはやればできてしまうことから、やらないのは怠けもの判定をされてしまいます。けれど、ハココが普通を装う無理をしたなら、頑張りすぎであって、反動が必ず来る。その状態でいるのも責められる。なんとも難しいさじ加減です。
例えるなら、長距離走を「短距離走の全力疾走で走れるだけ走っては倒れて死にかける、を続ける状態」と「自分に適したペースで走るが、それはものすごく遅いので走っているとは思われない」のどちらかしかできないのです。短距離走を休み休み続けることも出来なくて、短距離走モードのときは、常に全力でいないと維持できないのです。
ハココはずっと、短距離のスピードで走れるところまで走っては倒れるを繰り返してきて、駄目だ、これを続けても人生は完走できそうにないな、と気づき、現在徒歩に追い抜かれるスピードで走ることにしています。
おかげで、毎日小言ばかり言われています。どうしようもないと思われています。
でも、もし片付けようと思い立ったら、ハココはとても整頓しますし、数月に一度、その状態にしたくてたまらないときが訪れ、真夜中までかかっても片付けます。
小物のひとつの並べ方の角度、全体のバランス、にもこだわりぬいた最高の状態に仕上げるのです。
しかし、その様子は母の理解の範疇外の様子で、続きは明日にしたら?とかが、出来ません。だって、いまこの瞬間に、ハココはとにかくもう、すごく気になって仕方ないから!
ハココはたいていのことができてしまい、それもなかなかの仕上がりに出来てしまいます。だから、それをいつも発揮しないでいるのが、どうにも周囲にとって怠けていると映るのです。
ハココはやれることはしっかりやっています。けれど言い換えればやりたいことだけやっているとになります。とてもわがままなひとに見えます。
いっそ、全然出来なければよかった、とは思わないけれど、出来るけれどもどうにも半端なハココは、半端にしかできないので困っています。
もし、いつも「ちゃんと」をやっていたら、いつか絶対寝込むのです。それも突然、眠ったまま、梃子でも動かないくらいになる。
その後は、何とか回復しても、食欲がおかしくなります。まったくの無くなるか、異常に増えるか。それはハココにとって、天国か地獄になることを意味し、周囲はどちらにしても困ります。
実は、現在はおデブであるハココですが、基本、痩せ姫(摂食障害で痩せすぎな子たち)の生活と体型に憧れています。食べないでいる生活は理想だったりして、なので食欲がないとハココは幸せな気分です。ありすぎることは耐えがたいことです。ガリガリすらこえた究極の拒食体型はハココにとって尊いものです。その生活スタイルも素敵です。それとほど遠い自身と体型と生活が悲しくて泣きたくなる日もありました。人生を終わりにする決意をしたことも。
そうです。痩せていないから、だけで。しかも極度に痩せた体形でないから。そして、生きるために必要不可欠の食事と言う行為が苦痛で仕方なくて。
いま現在、その願望はそれほどではないですが、変わることなく痩せ姫様が健やかに存在することを願ったりしてしまう、ヤバい人種です。拒食なのに健やか? はあ? みたいに思われるでしょう。
けれど、これこそが他人の価値観を理解できないということじゃないでしょうか。病気のどこが尊いの? 病気が素晴らしいとか、なにぬかしてんの? 認識が歪んでいて、それが尊い? はあ? バカなの? ご尤もです。
でも、わたしにとって、その概念を否定されることは、一般的なことに例えるなら、タイムリーな話題で言うなら、自分の性自認や性的趣向を否定されるのと同じす。LGBTQさんたちは否定されて苦しい。同じです。同じではない? まあ、そうでしょう。拒食であることは命にかかわることですからね。でも、気持ちとしては同じなのです。
食欲ないのは大歓迎。ありすぎると死にたくなります。この思考回路、理解できなくて当たり前です。だって、生きることが一番重要ですから。それが普通の概念で、その中にいるから。
当たり前が当たり前であるという、概念の中に。
まあ、人間生きていればなんとかかんとか云々、否定しませんが。
拒食なんて、それはつまり、生に対する否定でもあり、理解できない、する必要もない、してはいけない禁忌でしょう。万人に認められる必要もなく、ただハココにとって、それらは心地よいと感じるだけ。だから、たぶんハココはいろんな概念に割と寛容な態度でいます。他人の認めがたい行為を、割と肯定的に捉えることができます。それが、他人を害するものでない限り。
心理の部分で言うなら、どれも興味深いです。わたしのトラウマの部分の、加害者的な人の心理すらも。
人間としての当たり前。そこにいる限り、発達障害は理解できるものではないかもしれない。すべての障害を理解できないと思う。そして差別は無くなりはしないでしょう。
でも、当たり前を当たり前と誰もが認識しているから、この世界は秩序が保たれているのは事実です。だからそれを否定する気は全くありません。
ハココも、その世界の端っこに住まわせてもらっているので、ハココはハココの当たり前と、世間一般の当たり前の中の妥協点を、どうにかこうにか見つけている途中です。
ハココは出掛けるとき、歌いながら歩いたり自転車に乗ったりで出かけたます。そうしないと出かけることが嫌すぎてできないのです。でも歌っていれば歌うのが楽しいに気がそれるのでできます。
苦手な事柄をするときは歌うことにしています。家事などのときは常に歌います。ときに、謎の歌詞を謎の節で。多くは猫の可愛さであったりを歌い、たまに不穏なフィクションを歌います。
そして、いちいち擬音を口にしながらいろいろやります。ぱしゅ! しゅあ! んにゃ! にょおう! ぴゅ! ぴゃ! きゅいん! こおおおお! がしょん! ぽあ! みゅうううにいい! どうです? なんてうるさいことでしょう!
しかし、これがハココがいろんなことをこなす上でのハココなりの工夫でして……。やっているんだよ、いまこれをしているんだよ、とハココに認識しさせ続けるために必要で、それを楽しい作業と思うためにも必要で。そうしてやると、ハココはストレスもなくこなせます。が、周囲は迷惑でしかないのを理解します。ごめんなさい。
他にも、レシピを見ながらの調理で、おしょうゆさーん、おーさじいっぱーい、にゃ、にゃ、にゃ、にゃんっ! つっぎーは、うにゃうにゃにゃにゃにゃ、おさとうさんなーりぃ、こさじさんでごわすごわすーにはいですぅん、ところでネコさん、おひるねしまする、かわゆさばくはつ、しっぽにじゃれつきたーいのはー、万国共通当たり前!(ここ、台詞調、早口) みりんさーんのとーじょーでーす、おひかえなすって、小さじよ、出でよ! ああ、きみのぉ、そのうるわーしきひとみのなかーにーとじこめらーれぇて、わたしはーついにー、ああ、ねこになるぅなる、ねーこーにーなーるー、るるるんるんるうぅ……などと歌いながらだととても効率が良いなんて、それはもう、変人でしかないと理解してるんですよ……。マトモでないのは分かってるんです。だから、他人の前ではやらないように頑張ります。
ハココは常に独り言を言います。こうしたらいいと思う。こうして! 違うよ、そうじゃない。なるほど、これがこえこうで、ここはこうか……なら、こうすべきだな。大丈夫だよ、全然平気。がんばれー。と、自分に話しかけて相談したり励ましたりしているのです。これをすると、作業効率が上がり、理解度も上がります。しかし、ひじょーに、うるさくて周囲を困らせますので、ハココも周囲の人に一応気を付けています(そのつもり)。声のボリュームを抑えたり(黙ることができない。困)。けれど、夢中になると、そちらに気を配るのができなくなります(本当に困る)。
ちなみに、特技やしたいこと、楽しい作業をしているとき、ハココはとっても静かです。いないかのように静かです。作業効率が下がり気味であれば、独り言が始まりますが……。
シロクマのぬいぐるみのくまと、柴犬のコタロウと、ぶたのぶーちゃんと、会話を楽しみ、彼らの機嫌や環境に気を使い、日々わたしの精神衛生を保つ一端を担ってくれる彼らに感謝をする。変な大人です。
もちろん、ハココのためといろいろやってくれる母に毎日感謝しています。でも、ハココはやってなんて、一度も言ったことがないので、やらなくてもハココは母を責めたりしません。でも、母はそうするのが一般的な常識だから、やっています。ハココは感謝はするけれど、どうしてそんなにこだわるのか、理解できるけれど、どうにも腑に落ちないので、困っています。
このままのハココでは、大人失格ですが、もうそれで構わない、ってなってます。
もう、定型の発達でない可能性が、ありすぎて……。
はじめて指摘してくれたのは、元恋人様です。精神科二十年以上通って指摘されたことがなかったのですが、もしや、その場のハココが、まともな思考ばかり披露するからでは?と思い至る。
解離で変な感じになったり、トラウマで泣き崩れたり、自己分析を話しては、意見を求める、を繰り返している場所。発達関連、一度も話したこともなく、それなりに問題なくひとと接していられるし、ものによってはすごい処理能力と集中力で、マルチタスクもこなせて……。
しかし、ハココ、そのばらつきがエグイ。これは、ドンピシャでなくとも、グレーなんじゃ……グレーゾーン……灰色のロシアンブルーは美しい……。
母はハココに人間らしい生活を望みます。その気持ちが良く理解できるので、最近、ごめんね、と謝ってばかり。
でも、ハココだって、母に出来ないと分かっていることは何も言われなくても率先してやっているじゃんか。
母より少し背が高いから、母に届かないものはハココが。機械関係まるで駄目だから、マニュアル系を読み解くのはハココ。家具の組み立てもハココ。極度の方向音痴の母を道案内して、目的地に連れて行くし、電車の路線調べとか実際にそこに行く方法を考えるのもハココ。日常の中の調べ物やレシピなの検索もネットがしっかり使えるハココ。ネットショッピングもハココの担当だし、母がこういうのが欲しいと言ったものの、たくさんのものを見て吟味して候補をあげて、選びやすいように候補を絞って、そして最終判断を母が、ってやってるのも。母が苦手な、コルセン系への問い合わせや通販の申し込みの電話、そういったものの対応や、契約書を理解したてかみ砕いて説明したり、その契約書そのものを書いたりもハココが率先してやっていて。
確かに母もやればできるかもしれない(ネット関連、方向音痴、機械関係のマニュアル、家具の組み立ては本当に出来ない)けど、ハココ、それなりに頑張ってるつもりなんです。
それらは毎日あることではないけれど、でも、母の苦手分野を担当しているのは事実で。
母がハココにやりなさい、と言うことは、ハココにとって関心のない事柄だから、どうにも重要度が下がってしまって、なにかに夢中なときに言われて、返事だけしてすっかり忘れていることが、よーくあって、さらにイライラさせてしまう。
やるべきことをやってからやりなさい。とは言われるけれど、ハココにとって、やるべき事柄の順番は、母とズレています。だからして、上手くいかない。そして、ふつうのみんなが思う順番も理解出来ているので、もどかしくて、ハココは、にゅーん……となってしまうのです。
いちいち気にしていたら死んじゃうよ。お妻様は言いました。そうでしょう。適度なスルー力がなければ、生きて行くことなど出来ない。だって、あまりにできないことが多すぎるから。
ハココもなかなかのスルー力を会得しました。生きて行くために。
今後の社会に。当事者へ、その周囲のひとへ。そして、関係ない人に
当たり前が当たり前であるこの社会は、たくさんの障害を生み出します。
発達障害もそうして生み出されたと考えて良いものだと思います。
これができない。普通ならできるのに。じゃあ障害だね。ある意味、どの障害もそうやってできています。目に見えるものも、見えないものも。大勢の他者の共通認識から外れていることが「障害者」なのです。
社会モデルというものがあります。共生社会を作るうえでの、障害に対する考え方。障害は社会が壁を作るから障害となる。だから配慮せよ。
美しい理念ですが、現場、当事者、当事者周辺を見て思うに、実現は非常に難しいでしょう。みんながみんな自分で精一杯なのに、どうしろというのでしょう。確かに配慮があればマシになります。けれど、根本的な解決にはならないのです。
ただ、わかってほしい、とは思います。少しだけ、考えてみてはもらえないだろうか、と。
足がない人に両足を使って歩きなさいと言ったら、最低の人間と言われて非難の的ですよね? けれど、目で見ることができる障害と見えない障害で、ひとは考え方や認識がかなり違うのです。
見えない障害に対して対応が一律に厳しいのが現状。一見してわからないから、あのひとには普通の概念で接して良いと判断し、結果、役立たずと言い放つことになる。
ちなみに、障害を持っているひとたちの多くが、その一般的な概念を持っていて、理解していて、それが実行できないことに苦しんでいます。そこから外れた人間だと自覚し、自分に失望し絶望しています。そうして、ときに他人に当たり、加害的存在として認識されます。
もし障害を受容することが本人に出来ていれば、もし本人の気持ちがちゃんと言語化できていれば、また違うのかもしれません。
けれどそれすらできずに、社会共通の概念(普通のことは普通にみんなができて当たり前)だけは理解してしまえて、違う自分が苦しくて仕方がない。
ひとに当たりながら、その自分の行動を悔やんで、それでもどうにもならない。理解されない状況ばかりを作ってしまい、さらに追い込まれていく。
みんな自分がかわいいです。自分で忙しいです。だから、他人に配慮ばかりしていられません。
ただ、ほんの少し、思いめぐらせてみることを、暇なときにしていただけたらと思うのです。
そして、どうか。障害を持ち、理解されないこと。誰にも理解されないのだと、諦めてしまわないで、どこかに発信してください。
なんでもいい。絵画、イラスト、小説、詩、書くことも描くことも出来ないなら、ただ言葉にする。脳内で思い描いたそれを声に変換する。苦しい! つらい! あああああっ!! そう叫ぶことを止めないで。それがいつかの世界を変えることつながるはず。
生まれた意義が欲しいなら、いつかの世界が変わることのためだった、だけじゃだめでしょうか。
いま、現在が変わってほしいのは、それはそうでしょう。でも、難しいかもしれないから。
ただ、その声は、きっとどこかに届くと、思うしか、ないんです。