トラウマというもの

こころというもの

SOSを出してもらえない社会

現代を生きるひとたちに社会は言います。
「助けが必要ならそう言おう。助けを求めることは恥ずかしい事なんかじゃない」
学校に通う生徒たちにも教育します。
「困っていたら助けを求めよう。また、誰かが困っていたら手を差し伸べられる人間になろう」

ここで質問です。

あなたは困っているとき助けてといえますか?

もし、ここで、迷わずに、YESと言えるひとは、きっと助けてもらえる環境にあるひとです。助けてもらった経験があり、心から信頼できる人間がいる、のではないでしょうか?
そして、きっと助けを求めずにこの世を去った人に、どうして助けてが言えなかったのか? どうして誰も手を差し伸べなかったのか? と本気で思ったりするんじゃないでしょうか? たった2秒で言える言葉をどうして発することができないのか? いのちのでんわだとか、いろいろ支援してくれるものだってあるのに、どうして?

答えは簡単なことです。
助けてと言ったところで助けてもらえたことがない。
いいですか? 助けてほしくてなんらかのSOSを発信し、無視され続けていただけで、SOSは発信していました。
では、なぜ助けてもらえなかったのか? この答えも簡単です。
助けてくれるひとがいないのです。

そのひとたちに向かって、まるで自己責任であるかのように、助けてと言えば誰かがきっと助けてくれる、と言ってのける方にお聞きしたいのですが、誰かってだれですか?

日本という特殊な思いやり

この国は、実は思いやりに溢れた平和な国であるがために、他人の事情に土足で踏み込まないんです。
それに、自分の立場や保身や、自分自身や家族を守るため、踏み込めなかったりもします。

家族は団結して助け合って暮らすことが望ましく、どの家庭もそれを率先して実行しているはず。子供は親を尊敬し、親は子供を愛し、母親は母性でもって家庭を支え、父親は父性でもって経済を支え、その健全な家庭で社会は構成されている。
という神話を妄信する世間、社会を、日本人の美徳である協調性によって作っていますから。
それが常識であってほしいので、問題はないことにしたいですし、ご近所さんにそういうことを指摘して関係が悪くなったりしたら困りますし、気づかないふりでいたい、気づかなかったのだから仕方ない、と自分を守るのです。
というか、率先して他人の問題に関わりたがるひとのことを、お節介さんと呼ぶのです。お節介は鬱陶しい。本人の意思を尊重しましょう。そういう文化が美しいとしています。

問題のある家庭も、きっとふつうにそれを行っているという感じに扱うことが正しいとしましょうね、ということになっているみたいな感じなので、素晴らしい協調を見せて、誰も気づかないようにしています。
そうやって、助けてもらえない社会が出来上がっていくというものなのです。

それから、子供は幼いから間違ってしまうから、大人が正すべき。大人が導いてあげなければならない。を過大理解していろんなことを先回りして止めたり、いろんなことに過剰に制限をかけたり。我が子を思い心配するあまりにそうなっていることもあり、あなたのためと言いつつ自分のためでしかなかったり。
親がなにか問題を抱えていたり、それを自覚すらしていなかったり。

家族の問題だから、そうやって見守っているうちに、いつの間にか追い詰められた子供たちも、親も、最悪の事態になって見つかる。

何度となく繰り返されても、変わらない。日本と言う文化の常識の枠から外れるのは、集団がとっている態度と違うことをするのは、難しい。でも、せっかくの、現代にいるのだから。いろりろなことが変わっていっているこの時代にいるのだから。
男尊女卑すらやめて、LGBTQだとかジェンダーについても、宗教観も、そしてAIの急速な発展。たくさんのいままでの常識が変わりそうな現代にいるのは、割とチャンスだと思う。

SOSが届かないことを悟った子供たち

SOSを発したことがあっても裏切られるということを何度も経験したら、「助けて」の言葉は届くことがないと思ってしまって当然です
これは、心理学でも証明されていて、学習性無力感、などと呼ばれます。

そして、もし本来助けてくれるはずとされる相手からの酷い扱いを受けていたなら、そもそも助けをどこに求めたらいいのでしょうか? 庇護してくれる相手からの酷い扱いなんて、世間の常識的にないとしたいことであるから、咄嗟に思い違いじゃないか?と言ってしまったりもします。子供だからなにか勘違いしているとか、大袈裟に言っているだけだ、とか。

そもそも、そう言った場合、その子はなんらかの行動で気になる子、と判定されていたりもして、その気になる行動が、問題行動と呼ばれていたりで、問題のある子供だから、とその子自身の問題なのだと判断する大人もいます。

不登校、自傷行為、市販薬のOD、薬物、パパ活なんてライトな呼び方をされるようになった売春、家出、他害行為、万引き。
これらの背景はときに、その子供の置かれる環境のせい、ということがあります。
そもそもこれらの行為が彼らにとって、ある意味SOSであること。精一杯の表現だったこと。彼らはその行為で自分というものを保っていること。けれどそれらが、不良事実、とされていること。

そこにしか居場所を見つけられないことは、はっきり言って大人の責任です。

大人たちは自分を過信評価しているのではないでしょうか。呼びかけさえすれば、気軽にSOSを出してもらえると。自分は頼ってもらえるのだと。

でも、子供たちは大人がどれほど頼りにならない人間であるかを知ってしまっています。

かつてあなたが子供だったとき、大人というものに反感を覚えたことはないですか? 自分たちを理解しない大人というものに。

現代も何も変わっていません。大人は自分たち子供の言葉に耳を貸してなどくれないとみんな知っています。子供の言葉を重要としない大人の態度を知っています。いつだって自分たちの気持ちは蔑ろにされてきたのだと知っています。

こんな話があったりします。

市民が八十歳を迎えたらお祝い金を出すというのを止めて、その財源を子供たちに使おう!

by子供の政策やりたいです!さん

なんてことを言うんだ! 先人への敬愛の気持ちがない!

byこれだから最近の若い者は云々言いたい系の先人代表の自称えらいひと

多くの先人たちによって却下されましたこの、子供たちへの政策に財源回そうぜ!の提案。
これになにを思いますか? この先人をあなたは頼りたいですか?

わたしは、自分の本気の悩みを、取るに足らないと判断されて絶望したことがあります。
かつての子供だったあなたもそうではありませんか?
だから、自分は子供の声をちゃんと聞いている。そう反論なさる方もいるでしょう。でもきっと、かつての子供の保護者も、そう思っていたことでしょうね。

あの何とも自分勝手な行動をしているようにみえる先人たちは、これが当然の権利だと、きっと思っているんじゃないでしょうか。そういうことを当然だと思っている彼らの先人に、理不尽な思いをさせられたので、自分もそうしたくてたまらないのです。
どこまで自分勝手な奴だ、と憤慨したいですね。でもそういうときは寛大に、年は取りたくないなあ……と思いましょう。自分が正義であるひとには、なかなか話は通じない。意固地で年だけ取った人間というのは、年をとれば尊敬の対象になれると思って、それだけを希望にしていた可能性があります。そのときは、好き勝手やってやる!なんて心に決めていたかもしれないですね。
わあ、カワイソウ。

無力感を学習するのが(来るべきではないのに)早くに訪れてしまった子供は、イヤイヤ言うことは死であることを非常に幼い時期に悟ります。生きるためその酷い扱いに適応します。みんなそうしている、とすら思っています。違うかもしれない、そう気づいても、逃げ出すことなんてできません。すでに逃げようと試みたせいで酷いことになった経験を学習しています。

報道される虐待、児童相談所に保護される子、彼らはある意味、マシな常態です。
それであっても辛いことであるのは考える必要もなくわかるでしょう。けれど、世の中には、誰にも気づかれることなく、消えてしまった子、生き延びることもかなわなかった子、そして、耐え忍んで大人になって生きづらさに絶望しているかつての子供がいます。その人生を他人が想像することはなどできないでしょう。

保護された子も、生き延びられた子供たちは、後遺症に苦しみます。複雑性PTSD(平たく言うとPTSDよりはるかに重いものです)とか解離性障害(多くは別人格を作り出して)、その他多数の障害を抱えて生きて行くことになります。生きて行くことすらないこともあります。生きられなくなるのです。

きょうだい間でのそれも、同様に。親が助けてくれないなら、見て見ぬふりをされたなら、誰に助けを求めますか?
助けてくれるはずのひとすら助けてくれない世界に、誰が自分を助けてくれると希望を持てますか?

自身を否定され、人格そのものを踏みにじられ、それでも自己肯定感を保ち、自分を助けてくれる人はきっといる、自分はだれかの助けがあって然るべき存在だ、なんて子がいたら、それは人間離れしている精神ともいえます。人間離れ、というのはそうであったらおかしい、異常だと言う意味ではなくて、そうできないのが当然で仕方ないことだということ。
でも、もしその子が人間離れした精神を持っていたらどんなにいいだろう、とうっかり思ってしまいます。そう言う問題ではまったくないのに。でも、それでも生きていられる道があれば、なんて、とても残酷なのです、ハココは。何にもできないくせに。

教師にしたって、たとえばいじめだとしたら、自分のクラスからいじめが発覚するなんて嫌です。評価に関わります。学校自体もそうです。穏便になかったことにしたいです。親御さんとの関係だって、変に崩したくないです。自分が親に酷い扱いを受けていること、どれだけの教師が真剣に聞いてくれるのか、生徒からの信頼なんて、それほどないのが事実です。

育った環境によって、他人になにを感じるのか、どう他人と関係を築いて行くのか、それらを学ぶことなく大人になってしまいます。

大人になったかつての子供たち

大人になったとき、そのかつての子供たちはどうすればいいのですか?

大人になったからこそ、自分がされたことの意味を知り、そして致命傷になる傷の手当も診察もないままに、社会に放り出されてしまいました。

彼らはサバイバーと呼ばれます。いわば、戦争からの生還者です。
けれど、その傷の手当てもされることなく、壮絶な戦闘でボロボロになった心と身体を引き摺って、なんとか生還したのに、誰もかれもが彼らに心無い言葉しかかけません。共感もない。だってだれもその戦争を経験していないし、そんな戦争があったなんて知りませんから。

そして、戦ってきたことを怖々と打ち明けたき、

子供の頃のことなんて忘れろよ。人生これからだぜ! でさ、そんなことよりこの前のことなんだけどさあ……。

by善意で言ってしまった無理解の友人のひとり

励まそうとしたって、そんな言葉受け入れられるはずもない。でも、想像すらできない環境なので、どんな心理になるなんてさっぱり理解できません。それがどんな状況なのか、あなたがどんな傷を負っているのか分からないのです。

トラウマを例えるなら……
自分のからだに直径5cm以上ある鉄パイプが刺さっています。
あなたはそれを気にせずに放ったまま、ふつうの人生を送ることができますか? 割と長いタイプの鉄パイプなので、かなりの物理的不便も伴います。

ハココには、長期にわたる虐待だとか、そんな状況を体験したことがないので、気持ちを想像することしか出来ません。そして、その想像はきっと、全然足りないものだらけで、まったくもって的違いで、もっともっと苦しいだろうこと、想像を絶するとはそういうことです。

でも、できないからと諦めたくないから、というかそれを経験しているひとがいることを忘れたくないから、彼らが発信することがあるなら、見ないふりはしないようにしたい(ハココのできる限りなので、すべてをとはいきませんが)。

SOSの届く場所はどこに?

子供たちにSOSを発するように呼びかけて、受け止められる社会がないのが現状です。
それなのにSOSの発信ばかりを宣伝する社会。命を懸けてこれが届かない=死とまで覚悟してのSOSが軽くあしらわれたときの、その絶望は計りしれません。

ハココは綺麗事が嫌いです。綺麗事ばかりの社会で、その綺麗事が現実したためしがないからです。
綺麗な言葉で、綺麗な世界だよ素晴らしいよと教えられたって、子供も馬鹿ではないのでだれもそれが真実だなんて思いません。
純粋な子供たちを、綺麗な言葉で洗脳しようとする大人たちの醜さに、子供たちは気づきます。

世界は矛盾だらけです。大人を見ればよくわかります。
国民の代表が国会で居眠りをしている、自分は授業を頑張っているのに。〇〇をすると約束してその地位に就いた総理大臣が、それをしないことを決める。してはいけないとみんなが知っていることを、するのが当然だという態度の大人が誰より堂々としていて、どうしてか大切にされていること。
理不尽そのものがこの世界であると、子供は知っています。

一般的なふつうを生きてきてもそうであるのに、常に戦場を生きいくしかなかった子供たちに、この世界に希望があると感じることができるでしょうか?
そもそもいつも大人が大変そうな社会で、この先を生きて行かなきゃいけないこと、その先がしあわせだなんて思えるでしょうか?

一般的なふつうを生きていれば、生きるとは何か、生きる意味とは? 自分は何故生きなければならないのか? それは少しくらいは考えても、考えることが日常にはならないでしょう。それなりに楽しいこともあるでしょう。それなりのふつうがあれば。子供時代の悩みが、大人になったときには取るに足らなかったと思えるかもしれません。

でも、どうか忘れないで。
その姿は、かつてあなたが信じるに値しないと感じた大人そのものだということを。あなたのその態度、言葉、あなたが嫌った大人のもの。
お前も大人になればわかる。それはあなたの実体験で言われて、実体験で感じているでしょう。
それは、ふつうを生きたからこその価値観です。

SOSが届かない社会でSOSを出すことの虚しさたるや。
自分の命が軽んじられることを、経験した子供たち。その致命傷の傷を抱えて生きることを強制されているかつての子供がいます。大人になっても、世界は彼らにやさしい顔をしてはくれません。

子供のために。かつての子供のためにも

辛い子供時代を生き延びたかつての子供たちには支援がありません。

もう一度言いますが、身体には直径5cm以上の鉄パイプが刺さったまま。治療するのはとても困難で、お金もかかるし、治療者の腕にも左右されます。少しでもその鉄パイプになにかがかざれば、耐えがたい痛みになること、想像できるんじゃないでしょうか? 経験がなくても、身体に刺さった鉄パイプをグリグリされるなんて、身の毛もよだつ感じがするでしょう?
それが、SOSも届かずに、生き延びることが毎日の重大案件の人生を送った、かつての子供たち。
どうして半端に生かしたのか。そんな風にも思ってしまう、彼らに救いがないなんて。

まず、彼らに支援をください。戦争経験者に支援を。あなたが見ないふりをした被害者に。あなた方大人たちが作り出した社会の犠牲になったかつての子供たちに。
そして、SOSが届く社会を作ららなければなりません。
その近道は、子供の言葉を蔑ろにしないこと。子供の主張を切り捨てず、間違いであるならどうしてそうなのかの説明をすること。「どうせ解らないでしょう」と言われた子供は、大人に言っても「どうせ解らない」と学びます。会話をするに値しない人間だと判断します。

あの分からず屋の先人に学ぼう!

親だから尊敬しろ!
とわけのわからないことを大真面目にいうヒトがいますが、尊敬されていないのは、はっきり言ってあなたに尊敬すべきところが無いからです。子供だからわからないのではなく、子供ですら理解できるほどに明らかに尊敬すべきところがどこにもないのでしょう。
そう言う大人を見ていて嫌気がさしたはずなのに、あなた自身がそう言う大人になったりしていませんか?

あなただって、大人に逆らいって、反抗してきたのに、自分が反抗されたら嫌ですか? 嫌でしょうね。人間だから。あなたは、大人になにをしてもらえましたか? その大人のおかげで何を得ましたか?
先人の態度に不満を持った現代の先人たちは、もういいじゃないですか。カワイソウニで。
でも、自分がそうなることがもし嫌なら、そう考える事ができるのなら、あなたはならなければいいのです。

SOSを出さないひとが悪いのだと責めるような社会で、出したら出したで突っぱねられて。

子供が救われなかった事件に、こんな奴が親になれるのがおかしい!とは言っても、生殖機能があるならだれでもなれてしまいますし、自分がそういう親になるとは思いもしなかったでしょう。
近所の人間はどうして助けなかったのか、見て見ぬふりだったのか?とその周囲を責めるひとは、きっと自分のまわりに異変があれば敏感に察知してあげられるから、そうやって批難してしまうのでしょうね?

大人が意外と大人ではないことを子供たちも知っていて、大人たちが自分のことで精一杯だと気づいてしまってもいる。
だからこそ、SOSを発することは難しいのかもしれない。

いい子だと思われたい。迷惑をかけたくない。嫌われたくない。でも、こんなことだれにも言えない……。
そんな子供たちを救うこともできない社会は、いったいどこに辿り着くのでしょう?

それを社会で、みんなで考えることが重要です。みんなというのは、本当にみんなです。差別する側もされる側もどちらでもないと主張差う側も、無関心のひとも。
ただ、考えなさいと強制しても本当の意味で考えたりなんかしない。勉強しなさいと言われてする勉強なんて、すごく退屈で嫌なものです。
でも、なにか恐ろしい事件が起きると、急にそこに参加し出したりします。その前には見てもいないから、傍観者でもなかった彼らが。
少数の人間が述べる意見でも、少数の人間しか問題にしていないことでも、一部の傍観者でもなかったひとにそういう問題があると知らせなければなにもはじまらない。それに触れれば少しだけでも議論がはじまる。

家族の問題に口をはさむことは、だめなこと。お節介は迷惑。けれど、酷い扱いを受けている子はその家族の一員と言えるのでしょうか?

学習性無気力感は、成功体験をすれば薄れるという研究結果があります。
助けてもらえたという経験。
自分が存在することを考えてくれること、どこにいるかもわからない彼らに、誰もができるはじめの一歩です。

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