1+1を考えよう
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有名な「1+1=2」ではないと、誰かが小学生のとき主張したという話。
誰なのかはハココは忘れてしまったけれど、ふと思い出して考えてみたら、かなり楽しくて、その結果、ああ確かに、となった。
で、誰が言ったのかなあ、と知べてみたら、エジソンなんですね。
でも、どうやらわたしとは違った考え方での、「1+1」でした。と言う話です。
そんなに重要でもないことも、考え方によっては新たな発見につながったりします。
1+1は本当に2?
エジソンは、1個の粘土と1個の粘土をくっつけても、2個にはならず、1個の粘土のままである、と指摘したみたいですね。小学一年生に言われたらまあ教師は困りますね。証明しようにも、別の習っていない事柄を持ち出さなきゃならないわけで。
エジソン少年、すごいなあ。んでもって、んな学校行かんで良し!のお母様、すげえ……。
ハココの「1+1=2」じゃないの考えは、まず、性質的なところで考えて、違うな、としました。
リンゴ1個とリンゴ1個はリンゴ2個になるけれど、もし、リンゴとミカン1個ずつなら、合計は確かに2だけれど、ひとまとめにはできないから、1+1は1+1でしかない。ということを考えました。性質は違っても同じ1個であるからして1と表せはしても、2とすることには違和感がある。でも、数は確かに2であることに間違いはない。
と言うことから、ハココが考えたのは、「1+1」ということと、ただの「2」というものの存在は、まったく違うのではないか、でした。
2つの粘土の塊もくっつけちゃえば、1つの塊。とは、真逆の考え方かもしれません。
なんというか、カッコつけると、ロマンティックな答え、考え方、かもしれないですね。
1+1が2になるためには、1=1という仮定が必要になります。
その1がどちらも同じ1であること。
けれど、もし同じ1であっても、粘土のように1つの塊としてまとめてしまえたら、2つにすることはできません。それを2にしたいなら、その式は、質量としてだったりを表すことに限定しなければならない、とならないわけで。もしくは、それが数と言う特殊な形式であることを考慮しなければ、2になることは決してない。
1gと1gを足して2gとする結果は得られるけれど、粘土の1つを1としたら、2になることはありません。「+」と言う行為の部分を、くっつける、としたら、粘土の塊の数はどんなに「+」しても、変わることがありません。どんな大きさでも、1つの塊は1つでしかないので1のままです。
数学は、余計なことを考えず、数としての計算をするからの式。
「1+1」を「2」とするとき、その1と1が違う性質であるならば「a+b=2」で、「a」と「b」が「=」での条件を付けくわえれば、aもbも1になりますが、「a=b」でないなら同じ「1」にはならない。たとえ、「a=1」で「b=1」でも、その「1」がもし違う大きさの粘土であれば、質量的には「a=b」になっているとは限らないのです。
というのが、数学を中学生程度しかやっていない、ハココの考えの限界です。
「1+1=2」の証明というものを見てみましたが、数学的な難しい理論はさっぱり。でも面白そうなので、今度図書館で数学の本を借りてみようと思っています。
と、まあ、そんなことはいいのです。
もっと、なんかこころがほっとする感じの証明ってないのかなあ、って考えるのですが。
数学って、ほら、なんていうか、「シュッ」としてる感じで「ツン」としてるじゃないですか。すかした態度でいるじゃないですか。その、キツイ顔つきをした美人の女性とか、スタイルのいい男性みたいなイメージなんです。あとは、とにかくいけ好かない奴です。
合理主義でたったひとつの正解か無限の不正解しかない。
たぶん、数学の中では数の性質についてを追加しちゃダメってことなんだろうなあ……
でも、1が2つあったとしても、同じ1でないほうが、自然であると思いませんか?
その方が、なんか楽しい感じがしませんか?
え? めんどくさい? いやいや、そういわずに。
次の問題の答えを求めよ
1匹のミケネコさんと1匹の長毛種のシロネコさんは足したら、なにネコさんになりますか?
確かにネコさんの数は2匹になりますね。でも、ネコさんの数という側面だけが2であるだけのことで、結局のところ、ミケネコさんとシロネコさんは協力関係にもなく、縄張り争いもしていて、ただのよく知らないネコさん同士で、たまたま近くにいるだけの、ミケネコさんとシロネコさんでしかないとき、一緒くたにネコが2匹いるな、としたら、きっとミケネコさんとシロネコさんとしてはお互いに不本意です。
ほら、上のネコさんたちどことなく不機嫌そうじゃないですか?
なので、「1+1」について、ハココは「1+1=1+1」でしかないんだろうな、という考えになっています。
別の角度からの説明も考えてみましょう。
1gのものが2つありました。そして2gのものが1つあります。重さ、質量だけであれば「イコール」で結ばれますが、片方の1gはaというもので、もう一個の1gのものはbというもので、そして2gのものは、またも別のcというものだったとして「a+b=c」にはなりませんよね。a=bでもないですし。a+b=cというのは、質量だけを見た場合にしか成り立たない。
でも、こんなこと考えていたら、数学の基礎も学べません。算数の最初の部分で躓きます。
だから、数学としてのひとつの考え方として、計算というものはこうなんだから仕方ない、とそのままに受け取ることにする。
そうじゃないなら、ちょっと面倒かもですが、たとえば、1に1を足すことはつまり、1から1個分、次の数に進めること。1+2は1から2個分の数を進めること、と考えれば、まあなんとか数学は受け入れることができるかな、と思うわけで。
だから、「+」はそのあとに続く数字の分だけ数直線上を進める、と言うことしかないな、というのがハココの1+1の証明の現在の答えなんですが。
数直線上を進んだり戻ったり、それが計算なのだろうと。
1+1の答えは無限にある?
結局、これを考えることによって、なににつながったのか、ですが。
ここからハココが得た答えは、計算と言う概念の中では「1+1=2」になるということではなく、数学の計算というのは、ものすごく限定的な事情の上に成り立っているんだということです。
みんなの常識である、「1+1=2」の式が成り立つのは、とても限定的な場面だけなのです。
けれど、世間はその限定的状況こそが、正義と言う状態。
正しいとする唯一の答えは、こんなにも狭い世界でしか成り立たないもの。
1が1であり、どの1も1でしかない。そして、ただ数直線上を移動するだけと考える場合。
つまり、「みんな同じ」が「正義」で「正しい」で、それが「当たり前」ということを、わたしたちは数学、というか、算数で、いや、さんすう、でこっそりとしっかりと刷り込もうとされていたんです。
まあ! なんということでしょう!
そもそも、学校は、みんな違ってみんな良いとは言いつつも、集団行動をすることが大切で、みんな同じでなければならないのです。
「1+1=2」に疑問なんて持ってはいけないのに、みんな違うんだよ、と教えるところ。みんな違っていいんだけど、1は1でしかないってのは、みんな同じように理解するのが当然で、それが社会ってものだよ。そういう教育なんだんですね。
まあ、その、理不尽っぽさとか、なんか納得できないけど、そういうものだからで飲み込むことをも含めて、覚えなさいなってところなんだろうな。
まあ、話は逸れたのだけれども、要するに、世界に中で「1+1=2」大きな場所、広い世界で考えたら不自然なもので、そうでなければならないのは小さな限られた狭い場所。
そして、その限られた場所の常識を当然とすることができるから、社会は成り立っていて、けれども「1+1」の世界にの限られた一部が「1+1=2」であるのが常識。
でも、同時に「2」は「1+1」の結果ではないことが、その狭い世界の外には事実とし確実に存在する。
ちなみに、粘土の考えでするなら、「1+1」の結果「1」となった粘土は、二度ともとの1と1には戻らない。ここもかなり重要な気がします。
ふつうのみんなは、とても狭い世界の「1+1=2」を常識として、それがわからないひとのことを、異常だという。「1+1=2」に疑いすら持ってはいけないし、そもそも疑うこともない。
「当然は当然だから当然なんだよ」と言われても
うれしいから、うれしい。それは誰もが同じようにうれしいこと。そして、その感覚はみんな同じように感じるし、そうじゃないのはおかしい。
それはつまり、変であることは、誰もが同じように変だと感じて然るべき。だって、変だから。
うれしいことがうれしいのは、みんなが知っての通り、それがうれしいだから、うれしい。
苦しいことが苦しいのは、みんな知っての通り、それが苦しいから、苦しいでしかない。
だって、それがうれしい以外のわけがないし、苦しい以外のはずもない。みんながそう感じるんだから、当たり前だよね? 当然でしかないよね? 当然なのは、だって当然だからでしょ?
という説明で、当然を理解しない人に説明して相手が理解できないなら、つまり「ふつうじゃない」としているということです。
な、なんか、圧力すごいけど、説明が全然説明になってなくない?
「1+1=2」の世界に生きるひとは、それが当然がみんな同じで、当然のように理解できるし、当然であると意識すらせずに、当然でしかなく当たり前でしかない。
「1+1=2」ではない、そう指摘するひと理解しないし、理解できない。
でも、なんだか、「1+1=2」じゃないことも有りにしましょうよ?
「1+1=2」以外もオッケーだよ、な社会を作ろうねって。ニューノーマルを提案していますね、国が、社会に。
共生社会の考え方って、つまりはそういうことだと思う。
「1+1=2」ではないを理解しましょう。「1+1」の答えに「2」以外も認めましょう。
それって、混乱起きないかな? だって、答えがありすぎてなにが正しいかわかんないじゃん……って、それが共生社会なんだよう!
個人を尊重する。「1」である個人の最小単位の性質は様々であり、ひとりを、たったひとりしかいない、ひとりである「1」としましょう。
要するに「1+1」の答えは無限です。無限に答えが存在する。それが共生社会。
今まで当然に答えは決まっていたのに、急に答えは無限にあるなんて、困る!!と言う混乱が、実際に起きてます。
そりゃ、さんすうの時間に、「1+1」の答えは「無限」と言われて、さあ自分の答えを言ってくださいねって、みんな大混乱ですよ。
圧倒的な自由を前に
数学としての「1+1=2」は確かにそうであるけれど、別の世界では違う。物理学とかそういう場所では、実際にそうらしい?とかなんとかなんです。
自分の中での、あなたにとっての「1+1」の答えは、さてなにが正解ですか?
もちろん「2」でもいいのです。ただ「2」の他にも存在することを認めましょうね、という世界にしよう、と。
数学としても、哲学的にも、社会的にも、心理学的にも、自分というものにも、色んな正解を考えるのは本当に楽しいですよ。
不正解こそが無い。
それを、それぞれに証明できることが、幸せの本来の姿であると考えます。