世界を変えることは自分が変わること
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「最高の教師~私は生徒に■された~」というドラマがあった。
わたしにとってとても心に残っているドラマだ。
感動をドラマでしたことに、映像作品で思わず泣いてしまったことに、本当に驚いた。
同時期にやっていたものに「VIVANT」があった。
スケールも大きく、俳優陣も贅沢で、メッセージ性など、様々に注目されていたように思う。考察が競うようにされていた。
確かに良いドラマだった。
平和を願うこと。そのメッセージがとてもよく伝わった。壮大なスケールは圧巻。
テレビドラマにかける予算としてもスケールが違ったし、力作の名に違わぬものだった。
けれど、同じように原作のないものであるなら、最高の教師の方が素晴らしいものに感じる。
スケールは小さい。学校の中の問題を解決するだけ。平和を願うとかそういう物語でもない。自分が死ぬ運命を変える、二度目の人生の話。
ラノベで流行っている設定にも似ている。
あのテンプレ小説が流行っていて、なにが面白いのかと、冷めた気持ちでいた。
設定が二度目の人生ばかり。
個性、オリジナリティ、メッセージ、そういうものが薄くて楽しいと思えなく、有意義でもなんでもなく、暇つぶしにも退屈になってしまう。
でも、最高の教師は、それらとは明らかに違った。
ひとの絶望は容易い
ひとが絶望するときとは、「VIVANT」の世界のように、あんなにも過酷であるからではない。
普通の毎日の中で、容易くひとは絶望し、死ぬ。
ただの日常で、ひとを容易く傷つけるひとが、自分の心地よさのため、自分の退屈しのぎに、なんらかのことに苛立ち、簡単に「死ね」と口にするような、世界では、絶望することなんて容易いのだ。
そんな世の中を、もしかしたら教師である彼女は、くだらないと鼻で笑っていたのかもしれない。
その彼女は流されてこなしていくだけの日々を突然に終わりにされた。
生徒に、担当していたクラスの生徒に殺された。
そして、突然に過去に戻った。
死ぬ未来を変えるために、「何でもする」ことをクラスの生徒に約束し、全力で向き合うことで、目的の自分の死を回避することに成功する。
たった、それだけのストーリー。
その中に現代の日本に、もっとも重要なことがテーマとしてあったのだ。
それは「VIVANT」にある平和への祈りよりも、現実味があること、そして祈ることではなく、自分が主体で生きることの大切さ、誰でもできるそのことをしないで生きる愚かさを、何度も何度も繰り返し伝える、そんなドラマだ。
くだらないって否定することは簡単だ。
そんなことできない、こなすだけで精一杯なんだ。
何も知りもしないで勝手に言うな。
彼女はそんな世界と戦ったのだ。
戦争や、拷問や、テロや、そんなことが起きるから、ひとはひとを憎むのか?
許せないと憤り、世界を変えるために動き出すのか?
そんなにも過酷なことに晒されて、ようやく世界を変わっていくのか?
そんなことはない。
二度目の人生。
最近の流行のライトノベルのような設定で、現実にあり得ないと言うなら、「VIVANT」に感動するのも、素晴らしいと話すこともおかしい。
わたしにとって、あの設定の方があり得ない。
生きるために適応し、上手く使えてもいる多重人格。
その彼のあまりに優秀な、超人的能力と知能。
テロを行う組織が、世界平和を願う組織だった。
その、あり得ない設定を楽しむこと、飲み込んで、その世界のことに心を寄せられて、ないと言い切れない二度目の人生はあり得ないなんて、それこそあり得ない。
(あ、でも、別班 BEPPANはある!)
考えることが世界を変える
わたしの世界は、人生は、この日本にあり、テロにも紛争にも戦争にも巻き込まれてもいないが、絶望があった。
なんど終わらせようと考えたか。
こんな世界価値はない。
生きていても意味がない。
自分なんか生きていても仕方ない。
死んだら何もしなくていい。
こんなに苦しむこともなくなる。
どうしてこんな苦しんでまで生きなければならないのか。
でも、自分が変わることをしない限り、世界も生き難さも変わらない。
嘆きながら生きて嘆いて死ぬ。そんなもんだ。
変えたいと思わない、思っても何もしないなら、その人生はそんなもん。
もちろん、すぐにすべてを変えることなんかできない。
歯ブラシを反対の手で持って歯磨きをする。
見もしないドラマの予告を見る。
意味のない変化に思えることでも、変化であることに変わりはない。
その小さな変化が大きな変化につながるかもしれない。
そんな亡くなった劇中の生徒の残したメッセージの身近な例えは本当にその通りで、その意味もないような小さな無意味な変化すら出来ない、しないなら、いつまで変化などないって、少なくとも望むような変化はない。
ただ、自分が変わりたいと、変わる自分を信じて、自分を知る、自分の感覚を、その思考の可能性を信じて、生きる。
想像できない未来が来ることはある。
ひとが想像したことは実現できる、なんて言葉を聞いたことがあるけれど、想像もしていない、想像することすら出来なかった未来が来ることがある。
だから、自分の想像力がきっと足りないくて、想像できていない未来も、絶望の中、最悪の結果しか想像できなくても、想像力が豊かで、空想にどっぷりつかれるようなひとでも、まったくの想像しない未来が待っている。
未来は未来にならないとわからない。
希望か、絶望か、そんなことは未来が現在になったときに、その現在の自分しか正しく感じられない。
いま想像した未来で感じる絶望を、未来の自分が感じていることはない。
未来の自分は、いまの自分ではないから、想像で感じる絶望は想像で感じたものでいかない。
現実で感じる絶望は、想像通りでも、想像した時に感じたものとは同じじゃない。
寸分違わぬ同じ感情を、二度と感じられないのが人間。似た感情を感じても、似ているだけで、同じではないのだ。
過去があって、未来がある。
あんなことが無ければよかった。
こんな現在ならよかった。
そんなこと考えても、現在はもう来てしまったし、過去は変えられない。
生き方で、考え方で変わる現在と未来
最強の教師の主人公は、二度目の人生を、全力の生き直しで、未来を変える物語だ。
起こることを知っているからの対処法も考えられたから、ではあるけれど。
その先の未来で、何より変わったのは、主人公の考え方や生き方や、主人公の感じる事柄の感じ方、考え方だ。
すべてに対して全力で生きたそのすがすがしさ。
自分のことを愛し、大切なひとと生きることの尊いことを。
それらを失うのはのは、自分があきらめていたからでしかないのだ。
想像以上の未来が来ないことを、未来を現在を見限って、来ないものにしたのだ。
でも、想像しないことは起きた。
まず、死んだのに、時間が戻り、二度目の人生がはじまったこ。
SF設定で、起きることとして現実感はないこと。
でも、起きた。その前提が、彼女が変わるきっかけだった。
でも、そんなにもあり得ないことが起きなければ、そんなにも想像できない未来が来る実感を得られないわけじゃない。
わたしは、ほんの少しの良いことが想像も出来なかった。
そんなことが起きる訳がないって、起きない未来しか想像できなかった。
なのに、それは容易く起きた。ほんのちょっとの自分の変化で。
ひとつのこと、本当に意味のないこと、無意味なことを一日中やって、馬鹿にされ、見下され、でもどうしても譲れないことを譲らないでいただけ。
罵られても譲らない。相手の言うことが正論でも、わたしの信じるもの、わたしの大切を譲らないでいたこと。
それはわたしにとって、想像もしない未来につながった。
なんの成功もなかった。
大切なものは守れてもいないまま。解決すらしていない。
自分がどんなにも無力で、どんなにも無能で、馬鹿で、愚かで、何もできない人間だって、理解できた。
すごくすこく頑張ったつもりでも守れてもしない、わたしの大切なもの。
この先も、守りたい、でも守り切れるかどうかもわからない、こんなにも大切ものなのに。
守れない自分なのかもしれない。そう理解した。
でも、わたしは守りたいという思いに変化がなかった。一層強くなった。
守れないかもしれないけど、でも、守りたい!
わたしは誰にも、わたしが大切に思うこいうことを誰にも奪われない。奪わせない。
守り切れなくて存在しなくなっても、わたしは大切なもののために頑張って生きたことを後悔しないで、大切なものを大切と思い続けたい!
守れなかったこいう結果になっても、守るための全力で頑張って守れないのと、テキトーにしてなくなって後悔したり、ひとが守ってくれないかったことを責めるのは、落ち度がないって自分で言い切る必要がある。
わたしはわたしのせいにして生きて死にたい。
せめてこの先の未来を。
そんな未来、来る想像ができてもいない。
欲しい未来が来ない想像の方がとっても簡単。
でも想像もしない未来は、想像のできない未来も、来ないなんて言いきれない。
言い切っていいのは、その未来にいるわたしだけだ。
過去の事実は変わることはない。
過去に戻れることができれば可能かもしれない。
でも現在そんなことは出来ないのだから、出来ない
それに、わたしはいまの大切な存在がいないかもしれない人生なんて欲しくないって思ったのだ。
あんなことが無かったらよかった。
でも、無くなりはしない。
でも、そのときそのときで、その事実に対する認識や、感じる事柄は違う。
過去は長いときの間で形を変えるのだ。
過去のことが、いまは絶望でしかなくて、でも未来に寸分違わぬ同じ絶望は感じることはない。
さらに増しているかもしれない。
軽減しているかもしれない。
何も感じないかもしれない。
どうでもよくなっているのかもしれない。
それは、未来の自分が感じるもので、現在の自分が決めつけるなんて、未来の自分に対して失礼極まりない。
ひとを憶測で語ることをしてはいけない。
それは最もしてはいけないこと。
憶測でひとをはかり、決めつけ、それを事実にすることで、自分を納得させるのは愚かしい。
事実ではないことを事実といて思い込んだあなたのことを、そのひとは認めないだろう。
事実を語ることができるのは、本人だけなのだ。
わたしは、わかる!と言われることがものすごく不快だった。
絶対に違うのに、同じと決めつけられていることに。
わたしのことをすっかりそのままにわかるのは、わたしだけであるのに、わかる!と理解した気になっているひとを、見下していた。
その共感を信じているひとが嫌いだった。大嫌いだった。
説明してもきっと分からない。理解できるなんて、ない。
あんなにも簡単に、わかる!と言う人の、理解を信用なんてできなかった。
逆に、心を寄せてくれるひとに、理解できないことを、わたしとは違うことを抱え、似ているね、って言ってくれるひとのことを、大切にしたいとしか思えない。
大切に思ったことがある瞬間がわたしは大切だってずっと思っているだろう自信しかない。
たとえ、大切じゃないってそんなときがきたとしても、現在の自分にとってこんなにも大切だった事実が変わることがないことが、わかった。
未来永劫に、現在のわたしがこんなにも大切に思ったことは、事実として在り続けるだけなのだ。
変わらないと嘆いて。終わりにすること。
選んでも、わたしにはその選択をしたことを、そうか、と受け止めるしかない。
でも、それをわたしは忘れないで生きて行きたい。
変わらない未来は簡単に想像できる。
あり得ない未来も想像できる。
でも未来は、未来の自分しか本当の意味で知ることは、できない。
タイムトラベルをしても、事実しか知ることはできない。
その中で感じるものは、現在を通って、たくさんの事柄を経ての未来でしか、感じることが出来ないものだ。
叶うと信じることは出来なくても、叶わないわけじゃない。
叶わないわけじゃないってそれが絶対だって信じていても、叶わないわけじゃない。
叶わないための行動をしても努力すらしても、叶ってしまうかもせれない。
未来は現在の続きで、わたしの未来はわたしにしかないのに、わたしの思い通りの未来は来ない。
思った通りの未来すら、思った通りと感じないに違いないのだ。
変わることを信じられなくても、変わるための行動はできる。
変わることを信じられなくても変わることを諦めなことは出来る。
変わってしまう未来しか来ない。
こう変わりたいって行動してもその未来が来るわけじゃないし、その想像した通りに変わった未来で、満足できるとも限らない。
変わる未来を信じることができなくても、変わってしまう。
変わるつもりがなくても、何かは変わってしまう。
変わってない。そう思っても変わってしまっている。
とりあえず、歯ブラシをいつもと反対の手で持って歯磨きしない?
その変化って両手が使える人であれば絶対に変えられるし。
手が上手く使えないとか、歯磨きを変えたくないなら、何か日課にしていることがあるなら、そのことにほんのちょっと違うなにかを加えてみよう。
小さなこと。ものすごく小さくていい。日課をやる前に深呼吸をするとか。
日課がなかったら、深呼吸を一日一回するとか、そんな新しい日課を作ろう。
そんなことに変った自分なんて感じないだろうけれど、そんな変化も起こせなきゃ、変わることを自分主導でしていくことはずっとない。
流されて変化させられて、他人のせいにして生きて他人のせいにして死ぬだけの人生より、わたしは自分で自分だけの希望と絶望と、感じていられる人生を、変わっていく自分を、全力で感じて、人生を終えたい。
そのとき、どんなにもくだらなかったと思うとして、どんなにもつまらなかったのかと嘆くとして、自分のせいにして死ぬために、いま、生きているんだ。
それに胸を張りたい。
わたしのせいで、こんなにも意味がない人生だったって死ぬ。
わたしはこんなにも頑張ったことに胸を張って、それでも叶わなかったことがあって、意味がなかったと思っても、自分のせいだって思って死ぬために。
ひとのせいにして死なないために、生きていたい。
「最高の教師」の感想として、ほとんど体をなしていないのかもしれない。
でも、これが、わたしがこのドラマを見て、それからの数日で考えたこと。
自分にとっての「変わる」とはなにか。
自分にとっての「後悔」とはなにか。
それを考えて、現在の、現時点の「答え」が見つかった。
そう、わたしは生きていたいって、わたしは思ったの。
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