社会に在る「正しい性被害者像」

性暴力を許さない

「本当の性被害者」ではないと決めつける「現実の性被害者」を知らない人たち

性被害者たるもの告発するなら二次加害を受けて然るべき?

現在、ツイッタランドで燃えている。ハココ、燃ゆ。

炎上が心理的ダメージになるという人もいると思う。ただ、わたしはツイッタランドにデビューしてまだ半年だけれども、小規模の拡散を何度もしていて、最初は通知がどんどん来ることにビビったが、拡散されて困る内容でもなく、ビビる必要もない。

とくに今回は、性被害者の心理、正常バイアスについての話である。
知ってほしいだから広まってくれて構わない。
誹謗中傷?構わない。

(拡散されて「正常性バイアス」という単語を知ったなんてことは、隠しておきたいが、正直者なので言ってしまう)

ハココ@WLTOS/Twitterより
ハココ@WLTOS/Twitterより

この報道のことで性加害があったのかなかったのかはまだわからない。
として、私個人の話をする。

私はレイプされたあと、ファミレスで共に食事をし、冗談交じりに笑って過ごし、自宅付近まで車で送り届けてもらい、お礼のメール及びやり取りを続けた。
性被害では上記があり得る。

【週刊誌の芸人M氏の記事を引用して】


こちらの投稿が万バズ?とか言うのになっている。

正直、タイミングを間違えたかもしれない……。と思っている。
令和6年能登半島地震についての投稿が拡散されて欲しいのに、ノイズになっていないか?とも思うが、本当に拡散されるべき能登の被災状況についている「いいね」や「リポスト」に比べたら全然少ないのだから……と自分を慰めている。

拡散と悪質なリプや引用に、心優しきひとが
「リプ欄閉じた方がいいよ」
「少しSNS離れてもいいんだよ」
「味方がいるよ」
「分からない人は分からないけど、これは研究で明らかになっている心理だよね」
「酷い二次加害(セカンドレイプ)だ」
「話してくれてありがとう」
そうわたしを思いやってくれているし、フォロワーさんが加勢してくれるみたいに「正常性バイアス」についての話を盛んに投稿してくれていて、心強く感じる。

そんな中、わたしは思っていた。

こんなにも二次加害を受けている!
まるで性被害者として認知された気がするぞ!

まったくもってアホであるが、性被害者はバッシングを受けること、被害を告発すれば二次加害が必ずついてくる日本社会に染まりきった思考である。

実はわたしは、こうやって二次加害を受けても耐えられると自信がつくまで、拡散型のSNSであるTwitterで発信することを控えていた。

それに耐えられずに現実にSNSのバッシングでダメージを受けるなんて本末転倒だ!という考えに基づいてのことなのだけれども。
つまりは、日本社会で性被害者の置かれた立場がそうであることの証明のようなものでもある。

今回の投稿が拡散されたことには「芸人M氏の性加害報道の記事」から派生したものだったからが大きい。

報道が事実かどうかはわからないが、これを読んでの個人的な話をしたものでしかなかった(つもり)。
わたし個人としては本当の本当にM氏についての批判ではないし、性加害が事実だなんて言うつもりもない(過去の発言や過去のテレビでの振舞いは批判したいが)。

個人の話で「一般的にこういう状況もあるんだよね」と話したに過ぎないつもりだったが、どうにも記事を引用するのは悪質な名誉棄損だ!M氏への加害行為!と言われてしまった。

そうであるなら今後は気をつけたいとは思うが、誰にでも読める記事を引用することもいけないのか……?と。

わたしの投稿は、M氏について印象操作で、悪質らしい。
報道が事実でなかったら謝罪じゃ済まないらしい。
わたしなんかより直接(罵詈雑言で)批判している人がたくさんいるのに、悪目立ちしたということか。

まあ、これは置いておく。

わたしの投稿に、
「実は私も……」
「私がオカシイんじゃなかったんだ……」
の声があったことに投稿した甲斐があったと思う。

その一方で、
「お前のレアケースを一般論として話すな」という「あり得ない」「嘘松」という反応がものすごく多い。
共感をかき消さんばかりに、強い言葉で嘲る性被害を受けたことのない人からの声だ。

けれど、性被害でなくても「いじめ」の被害者、「セクハラ」「パワハラ」を受けている人、「思いがけない暴力に晒されたとき」人は、へらへらと笑ってしまうことがある。

加害者の機嫌を損ねないように、必死に気に入られようとする。

それをたくさん目にしている人、それに理解を示す人はいるのに「性暴力」では「あり得ない」のはどうしてだろうか?
性被害者はみな「パニック」になり「泣き暮れて」いなければ「被害者」ではないのか?


よく聞いてほしい。耳の穴かっぽじって聞いてほしい。

人はあまりにもな危機に晒されると現実を「他人事」として捉えるのだ。

いま、能登半島の被災地でもそんな方たちがインタビューに答えている。
家族を目の前で失ったことを理路整然と説明する人もいる。

彼ら彼女らに、
「そんなに悲しくもないんだね」
「大してショックでもないんだね」
なんて言う人がいるのか?

性被害のPTSDの発症率は震災や災害を上回るとさえ言われている(震災等の心的トラウマを小さなことと言いたいわけでは決してない)。

子供を殺された親がときに淡々と葬儀を仕切ることもある。
その親にも「大したことなかったんだね」と言う人がいるのか?

泣き叫んで怯えていないせいで、性被害を「大したことがない」というのはどうして?

警察ですらそういう対応をする。

人はあまりにもな事態に遭遇すると「正常性バイアス」という「自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりするという認知の特性」と発揮するのだ。
大したことないと思いたいのだ。大したことないことだとしたいのだ。

迎合反応のせいで性被害は矮小化して不利になる?

性犯罪被害者の心理 | (公社)被害者サポートセンターおかやま VSCO(ヴィスコ)
性被害にあった時、被害者がなぜ逃げられなかったのか。それには、正常性バイアス、凍り付き、犯行抑圧状態、従順・懐柔反応などの理由がある。

この記事をぜひ読んでほしい。

生存したいから、相手の気に障らないように、愛想よく振舞うことがあるのは被害者心理では有名な話だ。が、一般的な知名度は少ないようだ。

それが今回の投稿でよくわかった。

お礼のメールを送る?ありえない。
自分だったら加害者に笑いかけるとか無理。

たくさん寄せられた。普通に考えればそうだろう。

けれど、そういう人は、実際に危機的な状況を「生命すら危険にある状況」を体験したことがないのではないだろうか。

お前の話は「レアケース」だよwww

そう嘲笑されたが、残念ながらレアではないのでノーダメージだ。

ただ、わたしの性被害の状況はレアケースかもしれない。
「解離性同一性障害」であることを「利用」された「性被害」であるからだ。

しかしながら、この「迎合反応について」を、

そんなことをしたら不利益にしかならない!
そんなことを発信して被害を矮小化させるようなこと、本当に苦しんでいる性被害者たちにも不利益になることだ!


と知ったかぶってくれた方の言葉は、何気に最も困った二次加害だった。

「被害後にファミレスで談笑して自宅付近まで送ってもらって、お礼のメールにやり取り続けるとか、ただのデートです」
「同意していた行為に、✕年後に不同意だと覆す女」

と言われたのだけれども、
はじめから同意してません。
無事に帰りたかったから「迎合する」しかなかった。

帰宅後一週間を食事を全く摂らなかった。悪夢に叫んで飛び起きる日々だった。
と言ったところで、客観的証拠を出せ!というみなさんに聞きたい。

客観的証拠って何ですか?

わたしはこの性被害をTwitterで発信したことでインプを稼いだって収益にもならないのに、インプ稼ぎと揶揄されているのはなぜ?

15年経ってようやくこうして口にしたことを「今更」と嗤っている方、15年PTSDの治療がまったく進まないこと、どう考えますか?

専門性のある心理療法でないと治らない状態であること、そんなトラウマであること、それが性被害によって負った心的外傷であること、どう思いますか?

あまりにもなショックから被害内容を理路整然と語れる性被害者は「正しい被害者像」ではないとして、被害者に足りえないとされること、どう思われますか?

魂が殺された被害者の「正しい被害者像」って何ですか?

被害者でない人が決めつけた「被害者像」にない「被害者」を「被害者ではない」と決めつけられた「加害された人」は「被害者ではない」のですか?

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わたしは、実際、全く被害者らしくありません。

けれども、半ひきこもりで、少し前まで乗れた電車に、男性恐怖からまた乗れなくなりました。

それでも、人に会うときのわたしは、とても愛想が良く、テキパキと動きます。
はっきりと物を言うし、下手に弁が立つので、厄介な患者だと通院中の病院にも思われていると感じます。
前主治医とは大喧嘩をしましたし、たぶん勝ったのはわたしでした(たぶんでしかないけれど)。

わたしは精神障害者です。でも障害者らしくもありません(近所の人に気づかれたこともありません)。

書類関係や、福祉サービスの事業所選びや契約も、自分で行っています。

なんなら、精神科の患者さんと、話が合わないなあと思ってしまう。

でも、実際にはとても具合はよろしくないです。
なのに、医師にすらその緊急性が伝わっていないと感じます。

わたしは、どうにも大丈夫そうだから。
はっきり言ってものすごく損をしています。

ただ、いま、この瞬間から被害者らしく猫を被ることも可能です。
被害者らしい被害者なこともたまにあるから。

でも、カーテンを閉め切った暗い部屋で縮こまって泣き暮らしていて、そうしていたとして、いつ誰がどこから助けに来てくれるのでしょうか?

必要な治療や支援が向こうからやって来てくれますか?

本当に治療が必要だ!どうにかしなければ!と、トラウマ疾患では能動的に治療せざるを得ない。

「被害者らしくない」とか「本当の被害者なら」なんて言っていたみなさんにお聞きしたい。

一般的に社会が言う「正しい被害者」という人は、どうやって治療にありついていると思っているのですか?


※この記事は2024年1月22日にnoteに投稿した「「正しい被害者」本当の性被害者ではないと決めつける、実際の性被害者を知らない人たち」に加筆修正を加えたものです。

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