「止まない雨はない」という言葉が嫌いなわたし

性暴力を許さない

「止まない雨はない」という言葉に疑問を呈した夜のこと

「生きる意味」は「雨が止まなくても」見つかるよ

辛いことに直面し続けて、生きる意味がないってなるとき、これが意味になるかどうかはわからないけれど。

もし自分が受けた被害だったりを知った誰かの考え方が少し変わるかもしれない、この先の被害者を減らすことの助けになるかも……。

性暴力だとか、そんなの被害を受けないでいるが一番だけど、被害に遭って苦しんでいるひとや、誰をも頷かせられる、被害後を生きる意義ってこれくらいしかない。

こんなことしかないけれど、文章として納得しやすいものはこれかなって思う。

たとえば、自分の治療に関わったことでの、医学的な発展、研究が進むこと、とかもあるかもだけど……。

でも、この先の未来のため、未来を生きる子供たちに少しでも素敵な世界をって、キレイな言葉は関係のない他人にも受け入れやすいかな……と思う。

でもやっぱり奇麗事でしかなくて、加害がなければこんなことになりもしなかったのに!って狂ってしまった人生を悲しくは思う。

でも、もうどうしようもない。

生きている限り生きるしかないから。

わたしは、そのときそのときの、何か、自分なりの答えを探すために、生きてみたいと思っています。

当時のわたしを生に繋げたのは

確実にわたしより大変なひとがいる。

わたしよりツライひとがいることで、でも、だから、マシだとかじゃない。
でも、そのひとのためにも、社会を変えたいって思う。
わたしは、せっかく発信ができるくらいに、なれたのだから。

じっと、黙っているしかなかった時期もこえて。

そのときに、わたしを励ましたのは、発信をするツライ状況にあるひとたちの声だった。

性被害者として、発信をする、彼女たちの言葉が、わたしを生につなげてくれた。

ときに、異常だと思う自分の心理が、彼女たちも経験したと知ったときの、圧倒的な安堵。

変じゃないんだ。わたしがオカシイんじゃないんだ。

それは、心理職や精神科医に言われるより、圧倒的に現実が伴ったものだった。

あんなにもツライのに、発信もしているなんて、すごい。
わたしも、あんな風になれたらいいな。
わたしも、わたしを励ましてくれた、その声のひとつになれたらいいな。

わたし如きが本当におこがましいけど、感謝も込めて、現時点のツライひとのために、何か発信できれば……。

自己満足なのはわかっている。

発信が下手くそなせいで、反感を買うだけになてしまったり、邪魔なのかもしれないことも、痛感する。

情弱と、知識不足。

でも、性被害に遭ったことは、これになら活かせる。
いま、まさに苦しいひとに、被害に遭ったひとにのために、何か言葉を……。

これすら自己満足だよ。でもね。

それくらいしか、性被害という事実からの、自己肯定感を上げる要素はない。

わたしが性被害に遭ったことなんて、関係のない他人にとってはまったくの無意味で、でもわたしにはあまりにも大きなことで。
だからわたしは、それを無視できない。

加害行為自体には価値はない。奪うだけの、酷く残酷なもの。
でも、傷を受けたことを、もういいよ関係ないよってできないし、忘れて生きるなんて不可能で、無関係の振りをすることも絶対に不可能で。
少しくらい良い要素の意味を見出したいって、思ってしまう。

そんなことが必要もなかった人生は、もうない。
生きるしかない。生きて、何かの答えを見つけたい。
見つからなくても探して、探し続けたい。
精一杯探して、最期まで見つからなかったら、わたしは自分によく探したねって言ってあげられると思うし。

身近なことからとにかく考える。
身近な事柄から、とにかく考えて、そのどこにヒントがあるのかわからない。

見付からないかもしれないけれど、そのときは答えは見つかりもしなかったけれど、ここまで生きられたなって、意味や答えがない人生でも生きることは出来るって、別の答えがあるのかもしれない。

生きた意味すらなかったって答えになるかもしれない。

考え方次第で、違う答えが出てしまう課題だと思っている。
どの値を重要とするのか、その価値観で答えは変わる。

わたしは病的にポジティブで、これらを考えて生きていこうとしたとき、たまたま「夜と霧」を読んで、フランクル医師は似た考えだなっておこがましくも思った。
というか、こんなことすら知らずに、生きていけるひとがいるのか?という驚きだった。

まあ、こんなの心地よい人生じゃないけれども。

「止まない雨はない」で励まされない、わたし

止まない雨の中でも、死ぬまでは生きていたいって、わたしは思う。

止まない保証も、止む保証もないけど、止むかなあって希望を持てなくなっても、雨に打たれ続けて、高熱を出しても、たまたま生き延びたら、死ぬまでは生きとこうかなって、なったりすらことも、わたしのように、稀にあるのだよ。

現存する生物のどの種も、その雨を歓迎してなくても、その異常な雨で、何か、新しいものが生まれる可能性もあるし……。

それとこれとは、わたしにはなんの関係もないけど、そういうこと考えたほうが、なんか楽しいかなあって、そうやって雨に打たれ続けているのだ。

そんな雨に適応したりしたくはないけど。

いつの間にか、雨とかどうでもよくなって、非情な雨にすら適応しちゃうとか、すごく嫌な話ですね……。

たぶん、PTSDに陥るトラウマ体験って、こういうものになったりするんだろう。

それにね、監禁されていたとき、雨が降っていたんだ。
雨が降る度に、あのときの部屋とか、においとか、音とか、思い出すんだ……。

というか、Twitter(現X)で、FFさんと話したことで、こんなことがある。

止まない雨を嘆くことができるひとは、雨が止んだ状態を知っているひとだよねって。
雨が止むってどういうことだろう?って考える側の気持ちをわかるかな?って。
生まれてこの方、雨天で、土砂降りだったりすると、ほんの少し雨が弱くなったときは、ものすごく生きやすいって、歓喜する。
常に遮ることもできない雨に打たれて、濡れネズミでいるしかなかったのに、ある日「傘」というものの存在を知って、憧れる。
その「傘」を手に入れた瞬間の、あまりの快適さに驚くんだよ。
そうしたら「レインコート」の存在を知ってしまって、欲しくなる。
ようやく手に入れた「レインコート」は、雨の中にいるのに、自身を濡らさずにいられる、魔法の防具みたいなもので、雨の中をへっちゃらで歩けて、本当に驚くほどの快適さ。

でも、どうやら、他のひとにとって、それがうれしいとかが理解できないらしくて、どうにももどかしい。

たくさんのひとから、なんて生き難そう、なんて酷い現状、なんてカワイソウ、そう思われる現実は、自分にとっては、どうにもこうにも、様々に改善されて、ものすごく生きやすくなった状態であるのに、他人から見たら、常にツライ苦しいしにたいとつぶやくひとから見ても、最悪な状態って思われる。

下を見れば、って言葉の「下」に居るのかもしれないって、わたしは思いつつ、FFさんと夢中で話した。

「止まない雨はない」について、こんなことを話せたのは、彼女がはじめてだった。

下を見る訳じゃない。でも、きっと彼女の現状は、わたしには想像も及ばないものだと思っている。

ただ、なんとなく「雨が止む」ことを普通に話せるひとって、いいなって思うのだ。

「止まない雨はない」って、大嫌いな言葉。

励まされたってひと、励ましとして贈るひと、当然に「雨が降っていないこと」を当然と信じているひとに贈られると、その落差から、急に笑い出したくなるよ。


※この記事は2023年11月3日にnoteに投稿した「「止まない雨はない」という言葉が嫌いなわたし」に加筆修正したものです。

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