「サバイバーが救われない社会が抱える損失」を研究してください

性暴力を許さない

「性暴力被害者たちに性暴力を撲滅する行動を求める社会」はオカシイ

どうして、私たちが性被害を撲滅しなければならない?
それはまるで、交通事故にあった本人が、怪我した体を引きずりながら、交差点の真ん中で交通整理するようなもの。
怪我をしていない人がやってはくれないのか。

非虐待、性被害者、様々なサバイバーに社会はそれをさせる。
本当になぜだろう?


わたしのTwitterデビューは2023年の6月だった。

ほどなくして最初の拡散を経験することになる。女性専用車両についての投稿だった。

一部の?男性から「性加害しない俺たちを巻き込むな!」「性差別をするな!」という反感が返って来た。

二度ほど女性専用車両でわたしの投稿が拡散されたのだが、最初の拡散のとき、和菓子の名前をしたZ世代の男性と話し込んだ。

わたしが性被害者のトラウマの深刻さを訴えたくて発信をはじめたことに、彼は「”データ”を集めて見せればいいだろう」と言った。
「わたしにはそんな体力も健康もお金もない」そう返したら「あなたの気持ちはその程度なんだろう」と言われた。

「誰の得にもならないことだ。被害者性を強調してツライ苦しいと訴えるだけのあなたのことなんか、誰も助けたいと思わない。最初こそ同情を集められるかもしれないけど、すぐに飽きられる。自分で動かないで、できないばかりのあなたを救いたい人なんていない。そんな態度では話も聞いてはもらえない」

彼はそう言った。私はうんざりした。

「一人でも、金が無くてもどうにか作って、何年かかっても、死んででもそれをやるんだっていう気概もないくせいに、一丁前に語るな」

彼の言葉に一理あるとわたしは思った。
けど、どう頑張ってもわたしにはできない。少なくとも、向こう十年は無理だろう。

でも「性被害を軽視する社会を変えたい」とわたし心の底から願い、そのためにできることをしているつもりだ。

悔しかった。
こんなにもツライことすら嘲笑うように、彼は社会人をしている。
男尊女卑の社会でその恩恵にあずかっている。

「俺たちは下駄なんか履いていない、女尊社会で虐げられているのは男の俺たちだ。俺らの世代は女尊。男は損ばかりだ」

今思えば、彼はアンフェミ言説の信者となんら変わらない女性蔑視の男性だった。

それは、Twitterをはじめたばかりで、Xに変る前のこと。

現在のわたしは色んな知識を得たから、今なら彼の言うことにきっと反論をすることもできる。
当時の様に凹むだけで終わったりしない。

でもあの時、本当に悲しくて悔しくて、自分の発信の意義と意味を考えた。

被害者性には意味がない? 飽きられる? いや、違うね。
わたしたちが回復できないでいることに社会的損失がある。
その損失が如何に大きいのか、国に社会にとって、どれほどの損害であるのか、わたしは言語化できる。それがわたしの経験そのものでもあるのだから。

彼がくだらないと鼻で笑う被害者性は、わたしが如何に過酷な現状に置かれているかということだ。
その状況にいる人は、わたしだけじゃないぞ。

その社会的損失について研究する価値があることを、社会福祉の分野にいる人は理解してくれるんだぞ。
誰得なんかじゃない。全国民に関わる。国の税金に関わる話だからな。

「これから女は」

そんな感じでいた彼は、しばらく私の投稿が拡散する度に「またやってるよw」と嘲りの引用をしてくれた。

「そんなんじゃすぐに誰にも相手にされなくなる。俺の言った通り。嘲笑の的でしかない」

彼はそう言った。

なるほど、彼はわたしを批判し嘲笑うミソジニーの男性の意見しか見ていないのか。
その倍以上の賛同の声を見ないのか。興味深いな。

わたしは、アンフェミの言説をわざわざ読んで、その視点にほんの少し頷きつつ。
そうして彼の視点が見えるようになってきた。

結果として、わたしは学んでもいないけれど、ラディカルフェミニズムを推せると考えた。

アンフェミの言説は「男は悪くない、全ては女が悪い。他責思考の女が邪魔をしているから上手くいかないのである」という、要は「全ては女が悪いのだ」という「他責思考の塊」と分かり、つまんねえの、とフェミニズムに帰って来た。

わたしの持論では全ての社会問題は「男尊女卑」に帰結する。

女性蔑視がとりわけ酷い日本ではナチュラルに男性は女性を蔑視していて自覚すらない。自分が男だから受けている恩恵にも気づかない。

そのことは、女性の社会進出と非常に相性が悪い。
下駄を履いているにもかかわらず、平等だと言い張る男様たちからの上から目線に抗議すれば「甘え」とされる。

履いてるんだよ、下駄を。
だから男様は上から物を言えるんだよ。
フラットな視線で考える事もできない男様。
地面に降りて見なさいな。

話を戻すが、彼は最初に絡んできたとき、わたしのFFの少なさを嘲笑った。
はじめたばかりで合計50程度だった。
そうして、ここ(Twitter)での価値はFFの多さなのだと知る。

とはいえ、当時でもTwitter歴数年あったのに五十歩百歩のFFの数の彼にマウントを取られることに内心、笑ってしまった。
年数から相対的に考えれば……。いや、言わないでおこうか。

わたしのTwitterでの活動は挫折からはじまったとも言える。

女性専用車両の存在に感謝すること、協力を呼び掛けること、存在意義を説くことが、まさかあんなに燃えるとは……。

ツイッタランドの洗礼だったのかもしれない。
ここはミソジニーの温床でもあるのだと、初っ端で知ることとなった。

それでも、和菓子の名前の彼には感謝している。

おかげで、わたしは、もっともっと考えようと思った。

わたしの気持ちは「その程度」なんかじゃない。
わたしには出来ないけど、出来ないからその価値を解ってくれる人を探すまでのことだ。

サバイバーを救わない社会が抱える損失は大きい。
経済的な損失だ。国の損失だ。全国民の損失となって還って来るものだ。

和菓子の彼はどう考える?
君もその損失を被っているんだぞ?

サバイバーが救われない社会が抱える損失

「性暴力を軽視する社会を変えたい」と心の底からわたしは願う。

そして「サバイバーが救われない社会が抱える損失」を可視化する研究をしてもらいたい。わたしには現在どう頑張ってもできないから、誰か、学歴や地位や研究費や人脈や、そういうのを持った人に、してもらいたい。

研究する価値は絶対にある。

「魂の殺人の可視化」も科学でしてほしい。

それを、ある大学での精神科医療に関するインタビューで、ついでとばかりに熱く語った日の話。

わたしは大学に行ってない。
高校は通信制で偏差値は底辺も底辺で中学レベルの内容だった。
だから、自分の能力がどれほどのものなのか測りかねている。
国語力が無いと嘲られればそうかなあ……となる。
境界知能と言われれば、そうかなあ……となる。

大学という場所がどんな感じの場所であるのかすらもわからない。

ただ、人生ではじめて会った大学の研究職的な人に、ポテンシャルを褒められると、さすがにちょっと、うきうきした感じに、そうかなあ?と事実風味で受け取りたくなる。
まんざらでもない気分になってしまう。
勘違いかもしれない。お世辞かもしれない。

でも、わたしの語る夢が、夢物語でもなくて地に足がついていると言われたことも、少し、いや、ものすごくうれしかった。

本気にしていいのかわからない。

けど、豚もおだてりゃ木に登る(古い)から、やれるかもしれないって、思えてきたりする。

希望を胸にしてしまうとき、慣れない感覚に、躁状態になってるんじゃないか?と疑いたくなる。

けど、躁のときにその自覚はないはずで疑ったりはしないかな……とも思う。

まず、体調は悪い。本日も絶不調である。

わたしはこれからトラウマ治療をしたいとも考えていて、そのために動いていて、福祉の許可が降りたら可能にもなる。

そうしたらきっと私の体調は、程度は分からないけれど一定期間、崩れるだろうこと。
この思考や感情や感覚を保ったままいられるのかもわからない。
それでも病的にポジティブでいようと、いたいと、思っている。

大学の人たちに話を聞いてもらっているのに、わたしの話す内容、例えば、前病院で心理療法が禁止の扱いだったこと(心理療法を受けると体調が悪化するため)、現病院での心理療法が中止になったこと、それを「わたし」がどう見ているのか、「わたし」の見解を聞きたいと言われたこと。

「わたし」の?と不思議に思った。

それでも、「わたし」の見解を述べてみれば、なるほど!それはそうだ!と返ってくること。

こうやって、少しでもわたしの考えが認められること。
そこには相手が大学の人だからの喜びがある。
それには、友達とかではダメだったりする。
わたしより地位があり、専門知識を持った人であることが必要であることが否めない。

わたしは考えることが好きで、それを言語化し、誰かと議論したい。
それは、相手が専門知識を持っていることや、その分野での研究をしている等の事柄があることで、価値が高まる。

小学校の卒業式、担任からクラスの全員にそれぞれ渡された手紙の中に、ハココさんは大学教授にでもなるのかな?と書かれていた。
大学なんて頭の良い人が行くところで、わたしがそんなとこに行くかなあ?と本気で疑問だった。

けど、もしも、の話。タラレバだけれども、中学の時、父親のことがなかったら?

わたしは県内の公立で上位にある進学校に通っただろう。
そうしたら熱心に学び、大学に行きたいと願っただろう。
元々、心理学に強い興味もあった。
人の心というものが不思議で、人の行動や言動の裏にある心理や、人それぞれに違う視点があること、認知の差や、認識の差が及ぼす思考の違いや、中学の時のわたしの自主課題として脳裏にいつもあった。

実際、わたしがどの分野を学びたいとするのかはわからない(どの分野も興味深いものだから)。
でも、そうして大学に進んだら、わたしはどうしただろうか?

とは言え、中学の時のある種の挫折がなくても、わたしは解離を既に発症していたし、どこかで必ず精神的な安定を欠くことになっただろう。

しかし、学歴は欲しかったと思う。本気で思う。

教授は冗談としても、進学していたらしがない研究者としていたかもしれない。

わたしの可能性は、どこでどう潰れて(潰されて)、現在の福祉に頼るような状態になってしまったのか。

それでも、わたしは現在のわたしであるから『この思考』をしていて、『この感覚』で生きていて、『この感性』で言葉を発している。
だから中学の時の挫折やその後の苦境なくして、これらを手にしてはいないだろうこと。
この視点を持つことはきっとなかっただろうことを思う。

どちらが良かった?というのは、もう現在しかないのだから愚問ではあるが……。

現在しかわたしにはない。過去があってわたしになった。

仮定の話で、このときこうしなかったらああしなかったら、転機となったことをしなかったら『わたしは死んでいる』という答えは簡単に出る。

例えば、恩人の女性に出会わなかったら、とか。
人生ではじめて好きだと思えた人との時間がなかったら、とか。

恩人に出会わなかったら、私に解離性障害の診断が付くことは更に遅れただろうこと。
元恋人に出会えなかったら、私は今も性的な自傷行為に明け暮れていたかもしれないこと。
恩人に出会った頃の主治医が良心ある医師でなかったら、社会的入院をさせられていたかもしれないこと。

人生は不思議だ。

わたしの人生は荒波がすぎると大学の人に言われたけれど、小さくて大きすぎる幸運をたまに手にして、そのおかげで生き延びることになったのだ。

どこかで終わっていても全然おかしくない人生だった。

終わらなかったのは、その小さな幸運で助けられたから。

卑屈に言うなら、それさえなければ終われたのに、となる。

自分でもわからない。
わたしはどうして笑っているのだろうか。
どうしてポジティブに考えようとするのだろうか。

私怨と復讐とで生きていて、生活は破綻して、ギリギリの金銭でやりくりする日常で、これでも割と幸福なんだと言ってみる。
泣きながらでも幸せだ、幸せなんだ、とくり返す。
無いものより在るものを数えて、そう言うのだ。

無いものを数えるとき、失ったものを数えるとき、得られるはずだったものを数えるとき、手に入ったかもしれないものを数えるとき、憂鬱で悔しくて悲しくて苦しくて憎くて、全てを投げ出したくなる。
そのときには「大切」も浮かばない。絶望だけが見える。
嘆きの中で、どうしてこんなことになってるの?と虚空に問う。自身に問う。からっぽの箱に詰められている絶望に問う。
そうしていると、明日が来ることすら信じられない。
明日が来ることを待つこともできない。
明日を迎える方法もわからない。
途方に暮れて苦しくて、消えてしまうことが最善だと思う。確信する。
そのときにわたしを生かすのが、わたしを苦しめもする解離の症状だったりして、複雑な気持ちになる。

それでも明日を迎えられたときの安堵。

そのくり返し。報われない苦しみを抱え続けて、死ぬときはセンセーショナルに報道される方法にしてやる!なんて、そんな決意をしてもいる。
この最期を決めておくことは、割と心の安定になっている気もしているのだ。

私怨の復讐を果たして死ねるという希望が、最後に残されているのなら、と頑張れる。

だから、

わたしは善良なサバイバーなんかじゃない。
被害者にされたこと、そして救いがなく、あまりに苦しすぎるから。
私怨と復讐で生きているのだから、加害性だってある。
わたしはこの苦しみを社会に「わからせ」をしたいとすら考えているし、それを正当化する所存なのだ。
わたしは私怨に生きている。
無意味に生きて死ぬ自分という生命の存在が許せない。
そんな人生にした加害者を絶対に見返さないと死にきれない。
社会を変えるとか壮大な夢を描いてる。
トラウマ疾患を抱える人たちが福祉からこぼれ落とされている現状を許せない。

魂の殺人の可視化。
トラウマ疾患の患者が救われないことの社会的損失。
それらを研究してもらいたいから、わたしは生きる。
最期まで社会は変わらないかもしれない。
それすらも見届けてからでなければ死にきれない。
怒り。憎しみ。私怨。復讐。醜いかもしれない感情すらも糧にして、生き恥を晒してやる。
研究は私には出来ない。
金銭的に。体力的に。心身の健康が伴っていない。生活すらままならない。学がない。地位がない。人脈がない。
強迫的な祈りと願いと、病的なポジティブさしかない。
今のわたしにできることは、ただただ声をあげることだけ。
目を留めた誰かが研究したいと思ってくれる可能性にかけているの。

わたしのツラさを「わからせ」たい。
これはある種の加害者的な思考だ。
でも、現在と未来の子どもたちに、こんな思いをさせたくなくて、わたしは汚れ役でもいいとも考える。
大人だから目的のために潔癖さは捨てようか。
事実、誰もが誰かの加害者だ。
そして、わたしのこの思いは私怨で復讐だと醜い言葉で表現する。

わたしはこの苦しみを社会に「わからせ」をするために生きている。
その「わからせ」という加害性を正当化する所存なのだ。
「わからせ」の内容ははもちろん、「サバイバーが救われない社会が抱える損失」を知らしめる研究や、「性暴力を軽視する社会を変えたい」だったり、「魂の殺人の可視化」だったりである。
これを正攻法でなんとかしたいのだ。


ときにふらっと死んでしまいたくなるわたしは、このモチベを保つのが難しい。
それでも、夢を見るのは無料なのよ!そう言って、どうせ叶わないと思われたって語るから。

夢を語ることが誰かの迷惑ですか。語るだけでも迷惑なんですか。
そんなことは無い。

サバイバーが救われないことの社会的損失を「わかる」べき社会に、わたしは訴える。
サバイバーが救われなければ、社会の損失は更に膨らむ。
これは、男女関係なく、国民すべてに関わる問題だ。
救われないサバイバーは福祉制度を利用する。
救われないでいるサバイバーたちは、大人であっても、その能力をしっかりと発揮できなくされている。

これは事実だ。真面目に誰か調べてよ。損害は本当に大きいから。

わたしがいま、生きている理由。
寿命まで生きるつもりしかない理由。
何の力もなく、知識もなく、方法も知らず、どんなにも困難であるかも知らずに、壮大な夢だけは描いている。まるで何も知らない子どもの様に。

大丈夫じゃなくても、大丈夫なわたしは、いつの間にやら深い森に入ってしまって迷子になっちゃうから、どうか見守っていて。そして呼んで。
わたしの『大切』を想う気持ちは、誰にも穢せない。
その光を知ったことは、わたしにとって本当に幸運で幸福だ。


※この記事は2024年3月24日にnoteに投稿した「「サバイバーが救われない社会が抱える損失」を研究してください!」に加筆修正したものです。

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