「美とミソジニー」著 / シーラ・ジェフリーズ
『射精責任/著 ガブリエル・ブレア』を読んだことによって、どうにも『女性』という立場が不利であることに気づいてしまった。
『射精責任』の感想は、あとでこちらにも載せます。
とりあえず、待ってて。
私は元々『男性』の生きづらさに寄り添いたい系である(はず)なのだが、女性が受け入れている《不遇》というか《不利な条件》というか、それらを当たり前としている女性を差し置いて「男性の生き難さ」を語るべき時代なのか?と。
未だに「女性の生きやすさ」なんてどこにもないじゃないか!!となってしまったのである。
うっかり、昔に比べたら『女性の権利《人権》』は格段に改善が見られた。
でも、まったくもって十分ではない。
前提として、私は「男性は女性より生きやすい」から「甘えるな!」と言うつもりはない。
ただ、今回は「女性が如何に生き難い世界であるのか」について、女性の『美』から読み解く、この『美とミソジニー』を読んで考えたことをまとめたい。
『男女平等』なんていうものは、この現代においても《まやかし》か《幻想》か、その類でしかないことが、『美とミソジニー』読んだことによって私の中ではっきりとすることができた。
『射精責任』とは違い、こちらは真面目な感じのテイストで書こうと思う。
(『射精責任』の感想は真面目に書かなかったと言う意味ではない)
女性は『人間』の“じゃない方”なのか?
『人間』と言われたら、どんな人を思い描くのか。
私は無意識に『男性の人間』を脳内に思い浮かべた。
当然のように『男性』を思い浮かべる。それから『女性』を思い浮かべる。その順序は意識しなければ変えることができない。
そのときに気づいたのだ。
女性は『人間』の“じゃない方”なのか?
あながち馬鹿げた話でもない。
女性はそのままでは《社会人》として存在することもできないのだから。
社会では、女性は多くの(男性はする必要もない)ことをしなければ《社会人》として認めてもらうことはできない。
そして、男性はそのままで『人間』として存在することを許されているし、当然《社会人》としても存在できる。
が、女性はそのままでは『人間』としての地位が劣った存在として位置づけられることになる。ゆえに、そのままでは《社会人》にはなれないのだ。
女性が男性と同じ地位にいようとするための涙ぐましい努力は、一体何のために必要なのだろうか?
『射精責任』と『美とミソジニー』は、私がはじめて触れたフェミニズム的な書籍である。
『人間』の”じゃない方”である《女性》は下等の人間なのか。
女性には真の《主体性》や《自己決定権》は無いのかもしれない……。
社会人としての女性の普通
化粧/マニキュア/ヒール(正装では5cmのヒールが必要だ)/除毛(脱毛)/ストッキング/……。
これらは社会で生きる女性に最低限必要とされているものだ。
これらをしなかった場合、女性は社会人として失格の烙印をおされる。
もし、化粧をしないで出社したらなんて言われるのか?(または、その女性になんて言うのか?)
体調を心配する人がいるだろう(顔色が悪い/化粧もできないのか?)。
露骨に「化粧くらいしなさい。社会人なんだから」という先輩の女性もいるだろう。
「色気が無い」というセクハラまがいの評価を下す男性もいるだろう。
つまり、円滑に社会人をしてやっていきたいのなら、女性には《化粧》は必要なものだ。
もし、ブラウスに腋毛が透けて見えたらなんて言われるだろうか?(または、以下略)
もし、スカートから出ている足にすね毛が生えていたら、しっかもストッキングも履いていなかったら、なんて言われるだろうか?(または、以下略)
だらしないとか、不潔だとか、そんな印象を持たれるだろう。
その女性と仕事をすることを不安に思うのが、きっと普通の反応である。
つまり、円滑に(中略)……女性には除毛(脱毛)やストッキングの着用は必要なのだ。
これらをしないでいる女性は社会人として不適合である証明になる。
必要と言うより、時と場合により、必須とさえ言える。
女性は社会で上手くやるためになぜか男性はしなくても良い、それらをするように求められている。
そうしなければ社会人失格だとされてるのだ。
大袈裟に言うなら、それらをしないことを選ぶことは《社会的自殺》である。
社会人として認められるために女性に求められていることはそれだけではない。
スーツ1つ取ってみても、女性と男性には明確な違いがある。
男性のスーツは当然スラックスだ。
女性はスカートだ(しかもタイトスカート)。
スラックスは機能的だ。
動きやすさ、歩くことひとつとっても一目瞭然であり、ポケットについても、寒さをしのぐことについても、スカートより機能的だ。
スカートについても機能的な面はある。
風で捲れたり、体のラインを強調する機能が非常に優れている(食い込みという現象が好きな男性もいる)。
バカじゃねえの?と言いたくなる機能のみに特化している。
上着のジャケットについても、男女で全く違う。
男性のジャケットは動きを全く制限しないし、体のラインを強調するようなことはない。ポケットなら、なんと内ポケットまでついていたりする。
女性のジャケットはその逆である。腕を上にあげるだけのことにも制限があり、体のラインにフィットするように作られている。ポケットに物を入れるなんて以ての外だ。
つぎは靴。
男性は革靴だ。女性はパンプスだ。
女性のパンプスにはヒールが必要だ。
ヒールが無いぺたんこ靴と呼ばれるものは“デキない女”の象徴である。
正装時には高齢であっても(最低)5cmのヒールを履くことが必要とされている。
しかし、妊婦はそれを免除される。
なぜか? 転んだら危険だからだ。
逆に言えば、女性は普段は、転ぶ恐れがある靴で日常を過ごすことを社会に求められているのだ。
ヒールのパンプスは歩くことに向いていない。
更に、華奢に見せる細身の靴は足を余計に疲れさせる。
でも、細身で、ヒールのある靴は女性を美しく見せるからと推奨されている。
ん?
仕事するだけなのに、なぜ、美しく見えることが必要なんだ?
誰のために美しく見える必要があるんだ?
女性は仕事場ですら「洗練された美しさ」を保たなければならない。
なぜ、仕事と無関係の、美しさを必要とされているのか?
体のラインを強調するようなスーツも、仕事に“相応しい”化粧も、どうして《女性》には必要なのか?
男性にとって、化粧は『普通』ではない。
現代でさえ『健康的に見える程度』の化粧はすれど、社会人として一目で化粧をしているとわかるアイシャドウや口紅、マスカラ、爪にはマニキュアもしていたらどう思われるだろうか。
恐らく、この人と仕事をするのは不安だという印象を与えるだろう。
女性はその化粧をしなければ能力的に不安視され、逆に男性はすると不安だと思われる。
この非対称性は一体何であろうか。
そのままの《女性》では男性社会には受け入れられないこいうことだろうが。
なぜ、男性と同じような、動きやすいスーツをきることをさせてもらえず、顔には様々なパウダーを塗りたくり、爪は健康に良くない硬化する液体で塗り硬めたり、脚や脇から毛を除去しなければ、《社会人》になれないのか?
一人前として認めてもらえないのか?
なぜ、女性らしさを際立たせなければ、男性に混ざることをさせてもらえないのか?
「私は女性です」と自己紹介するかのような、服装に身を包み容姿も整えなければ《社会人》にさせないと言うかのような、社会的な規範は何かの『テスト』だろうか。
女性らしさを兼ね添えていることも《社会人》になるために必要だとでもいうかのような……。
男性ではないということを自覚しろ、ということか?
考え過ぎか?
なぜ、女性はそのままではいけないのだろうか。
これに「女性は美しくありたいという本能がある」と述べる人は、もっと深く考えるべきだろう。
女性たちは、幼い頃から「美しくなりたい」と思うように『社会から洗脳』されている。
この『社会的な洗脳』から抜け出すことはものすごく困難だ。
全ての社会人に施されてしまっているのもの(洗脳)、男女問わず、全ての人に。
独りで抗ったら《社会的な自殺》をするだけでおわる。
著者は、女性が男性ではないことを明白にするために必要なのだと述べている。
私は男性を信じたい気持ちがあるので、そのような言い方を支持したくない。
が、《目の保養》だとか《オアシス》だとか、会社内の女性社員に対する好意的な言葉が、男性がナチュラルに女性の客体化をしていることを示唆している。
少女期には完成する《女らしさ》の洗脳
私は、第二次性徴を迎え、体毛が、すねや脇にはえてきたとき、それを恥ずかしいと感じた。
その理由は、テレビに出ている女性たちにソレがないからだ。
ソレがないことをテレビでは「きれい」と持て囃されて、みなにチヤホヤされる姿を見せられてきた。
ステキな大人の女性には『ソレ』は無い。それが無い女性はみなに認められる。
人には誰しも承認欲求がある。
それを体毛があることが阻害すると少女の時に既に知っているのだ。
なら、選択肢は1つ。ムダ毛として無駄なモノとして除去するのみ。
(しかも娘たちに母親がそれを勧める)
さらに、この時期の少女たちには、体に確実な変化が起こる。
ボディラインに丸みが出るのだ。胸が膨らみ、全体的にふっくらとする。
それまでは少年とさして変わらなかった体が女性に変っていく。
(これにまつわる話をあとで書く予定です。『トランスジェンダーになりたい少女たち』の感想として)
少女たちはメディアで持て囃される女性やアイドルの少女を見て、ボディラインについても考えるようになる。
服装も大人っぽくしたいとか、ファッション誌を見て、おしゃれの研究をし、化粧に目覚めたりする。
(これを色気づくと形容する人がいるということにも示唆されている事柄がある)
極自然な状態? そうかもしれない。
でも、その教科書は誰が作ったものだろうか。
時代を遡れば、女性が着飾ったのは『男性に選ばれるため』だった。
そして『男性の権力を誇示』するためのものでもあった。
トロフィーワイフという言葉がそれにあたるものとして今も残っている。
妻の美貌はそのまま男性の権威となった。
美しい妻を連れて歩くことが、男性の誇りだった。
けれど、それは美しい妻が誇りなのではない。
美しい妻を連れて歩ける自分が誇るべき対象だ。
「自分磨きは女性が自ら望んでいることだ」と男女共に言う人はいるだろう。
私は、それは少なくとも半分は間違っていると考える。
半分は自分のためでしかない。それは”一応”事実だ。
自分を磨けば《社会的な信用度》にもつながるのだから。
でも、《社会的信用度》が、女性の場合《容姿》に左右され過ぎている。
自分のためにする化粧はあるだろう。
私はイラストを描くことが趣味で「顔に絵を描く感覚」でなら化粧を楽しみたいと思っている。
(悲しいことに鏡と上手くコミュニケーションが取れないために、化粧ができない。社会人失格か?)
でも、そうであるなら、男性も化粧をするのが普通であっていいはずだ。
現在、自己表現として化粧を本当に楽しんでいると私が個人的に見ていて感じるのは、青りんご婦人とかいうバンドの男性だったりする。
オカシナ話、私が化粧を楽しんでいるなあと感じるのは、その他にも男性ばかりだ。
女性は化粧をすることに、相手にどう思われるのかを優先しているように感じる。
まったく、不思議なことである。
女性は『自ら美しくなりたい』と行動するように社会的な洗脳が施されている。
さらに、『それが女性である』と男性にも思われている。
洗脳が施されているから、女性たちの行動はまるで『自分が選んだ』かのように見えるし、女性自身、そう思っている。
美しさを『社会(男性)に押し付けられた/求められた』ことを『自分が望んだ』と思い込まされている。洗脳されているのだ。
このことについて、真っ先に浮かんだ女性が数人いるが、名前はあげない。
体のラインを強調し、過度な露出をし、それを自らの《主体性》だとして楽しむことが《女性の自立》であるなんて。
男性にまんまと取り込まれたとすら言える気がしてくる。
《自分らしさ》としてそれらを表現しても、向けられるのは性的な眼差しだけである。
男性の欲望のために、性的な欲望(ファンタジー)のために、女性は長い年月をかけて洗脳を施されてきた。
そう『美とミソジニー』では述べられている。
受け入れるには苦しいが、そうだと考えると合点が行くことばかりだ。
経済的に自立をしてさえ、その洗脳が解かれることはない。
女性は社会でやっていくために自らを《客体化/モノ化》して男性と見せかけの対等を得て、さらなる客体化に突き進む。
この洗脳が解ける日はくるのだろうか。
『美とミソジニー』を読めば、男女平等の時代と言われるようにもなったことが、嘘っぱちだと第一章で気づくだろう。
男性はしなくても良いことを、女性は社会にいるだけで沢山しなければならない。でなければ社会人として不適合だとされる。失格なのだ。信用すらされない。
しかもそれを”望んで”することをできなければいけない。
『主体性』『自己決定』『同意』『愚行権』
そんな単語が浮かぶ。その響きは空虚だ。まるで空々しい。
自分で選んだ/決めたはずが、結局は男性が望んだ形になる。
社会的にそれが望ましとされていたら、そこから逃げることなどそうそうできない。
金銭的に余裕がなくてもしなければならず、金銭的に余裕があるなら更にそれをする。
女性の女性的な美しさはときに社会的な強さに比例する。
女は美しくなければ価値がないのか?
なんのために美しさが必要なのか?
男に選ばれるためか?
選べるようになってすら、選ばれる側でしかないとなれば、男女の対等はどこにある?
少女期に抱いた違和感として、私はマドンナを思う。
ボディラインを強調したピッタリとした衣装。過度な露出。
SMを思わせる衣装。
何が良いのかさっぱり分からなかった。
どうしてあれらをしているのか? あれがクールなのか?
きっと、女性が女性らしさを全面に押し出すことを、公然とすることは革新的であったに違いない。
でも、そこに向けられている男性の眼差しは、自分らしい衣装を楽しんでいる人間ではないだろう。
同じことを、ガガにも感じた。全身にピッタリとフィットした衣装。
私は、彼女たちが自分らしさを楽しむことを心から喜ぶことができない。
それは、女性として、あれらに性的な眼差しを向けるだろう男性の気持悪さを同時に見てしまうからである。
彼女たちのような『セクシー』な衣装を見せつけられたときの不穏な気持ち。それは、女性にとって危険を察知したときの感覚と同じだ。
私が勝手に感じたものを、当人に押し付けるなと言われそうだが、それほどまでに女性が体を晒すことは危険であるのだ。
ポルノによって強化される女性らしさ(性的客体化)
ポルノが社会に与える影響は『女らしさ』の強化もある。
スタイルの良い女性を男性が求めること、ポルノスターの姿は、全ての女性に対しての性的客体化に繋がる。
道行く女性のスタイルの良さやボディラインを強調した服装を見れば「エロい」としての高評価を得るだろう。
AVが容易に視聴できるようになり、女優たちのすべすべした肌が普通であるようになるまで、女性たちのあいだで除毛や脱毛は普通ではなかった。
少なくとも、若い女性の間で陰部まで除毛、脱毛することを一般化させたのはポルノだろう。
ポルノ産業は男性を主な客として、巨大産業であり、大きな利益をもたらす。
それにより客体(商品)となっている女性は生活を潤わせることは確かだ。
それを盾にその産業を守ろうとすること、性的快楽を得続けること、女性と言う性的なファンタジーの強化に勤しむこと、それらに女優たちは協力したくなくてもせざるを得ない。
さらに、男性の性的ファンタジーの強化に合わせて、一般女性もそのファンタジーを体現せざるを得なくなる。
社会全体の、経済の、ファッションの決定権を握っているのが男性であり、その中で女性たちも生活をしているのだから。
そうでなかったら、女性の仕事時の服装はとっくの昔に変っているはずだ。
女性は政治家になってさえ、国の一番上の位に就いてさえ、女性らしさから逃れられない。
むしろ、それを強化された形で表現する必要がある。他の議員に舐められないように。他の国の男性のトップに舐められないように。
女らしさのはじまりは、性的客体化であっただろう。
男性に選ばれるために女性が必要だったことだ。
万国各国共通で、歴史の中、女性は女らしさとして、性的な魅力を高めること、男性の求める女性になることを必要とされてきた。
女性にとって男性に選ばれる以外に生きる術はなく、それだけが女性の生きる目的であったからだ。
男性に如何に求められるか、如何に求められ続けるか。
如何に男性の望む女性で居続けるか。
現在は社会で認められるためにも必要だ。
言い方を変えれば社会で認められるためには、男性に認められる必要があるということになる。
社会で認められる=男性に認められる=性的客体化、だ。
女性は幼い頃からあらゆるもので性的客体化のための洗脳をされる。
『美とミソジニー』に書かれていることは、私の子供の頃の疑問への的確で明快な回答だ。
『男性が望む女性でなければ、女性は何の成功も手にすることは無い』
『男性が望む形を自ら望んでいるのだと女性は言わなければならない』
『男性が望む形を、女性は自身が望んでいるのだと洗脳され尽くした』
政治家も、芸能人も、一般人も、女性であれば誰もがそうなのだ。
成功を手にするためには、『男性に望まれた形態』を取る必要があり、それをしている女性が成功を手にしたから、後に続く女性もそれをする。
悪循環がうまれる。
しかも、後に続く女性は『望んで』することになる。
成功例がそれであるのだから。
先の女性がしていたことの模倣と、先の女性に比べられることからの圧力もあるだろう。
フェミニズムが、女性性への開放に進むには、まず女性性を男性の性的ファンタジーから排除する必要があるだろう。
しかし、現実、男性の脳内から女性という性的ファンタジーは消えることはないのではないか……?
(ものすごく嫌だ……)
『美とミソジニー』では度々ポルノによる女性の性的客体化について語られる。
ファッションも、化粧も、ポルノに影響されたものが多い、と。
そのなかでも、私が非常に危惧というか、嫌悪と言うかを示さずにはいられなかったのは、ポルノ女優や売春婦が《華やか》で《強い》女性だとしたい《誰か》の存在である。
それらが女性に広まって得をするのは、間違いなく男性である。
うっかりそれを信じ込んで、女性がその産業に喜んで従事してくれれば、これ以上ない男性にとって性的な幸福が訪れる。
女性も金銭を手にしてWin-Winだろう?とでも言いたげな輩共。
しかし、それを女性に突き付けたとき、その言葉の意味は「お前らには女体にしか価値がない」ということだ。
女性がそれによって自己肯定を見出したということは、「女体としての価値で自分に自信を持てた」ということで、それは全く嬉しい事ではないははずなのだ。
「お前の価値は穴のみである」と言われて「ありがとう! 頑張るよ!」と返しているということ。
(誰もが性産業に従事できるわけではない。私たちは努力をしているのだと積極的従事者の方は言うだろう。それは否定でしないし、わたしにはできない)
正直、現在、性産業をキラキラコーティングして、敷居を下げるような、セックスワーク論があるが、私は、キラキラでコーティングしいるのは『女性の従事者』ではなく『男性の性欲/支配欲』であると考えている。
男性の『女性という性的ファンタジー』をキラキラコーティングしているのが、セックスワーク論ではないのか。
あらゆる場面で、結局のところ、男性にとって女性の価値は《女体》と《穴》と《産むという身体機能》なのか?と感じさせる発言が見える。
それは「女性自身がそう考えているからだ」などと意地の悪い事を言ってくる男性もいるだろう。
が、事実、そう感じさせる社会があるのだ。
女性は常にそれに抗うことをしようとしている。
性的な視線を向けられ続ける。
それを少女期から感じ続ける。
それでいて、意識しないでいることは不可能だ。
意識しなかったら危険でもあるのだ。自衛のためにも必要なのだ。
私は性被害者としての発信もしているが、スカートというものは性器へアクセスしやすくするための形状なのだと、被害に遭ったときに感じた。
というか、他にこの服装の形状の利点がさっぱりわからなくなった。
あるとしたら、トイレのときに多少ラクであることくらいだ。
ポルノについて。
女性が裸になる仕事が存在する、それを鑑賞する人がいる。
でも、男性の裸体を鑑賞することは、ほとんどない。
この差は何だろうか。男性は脱ぐ必要がない。
それは男性には望まれていなくて、女性には望まれているからなのか。
それは、女性にとって喜ぶべきことか?
ときに、「男性の性的な眼差しを利用するのが賢い女性」だなんて言われたりする。
どうして女性はそんなものを利用しなければ認められないのか。
それが如実に表れているのが、芸能界という場所だったりする。
男性はグラビアという下積みは必要ないのだ。この性差は一体なんだ?
男性が自分の容姿についてとりわけ気にするのは、頭髪くらいか?
その他に自身のパーツで気にするのはペニスの大きさか。
女性はどれだけ容姿に気を使わねばならないことか。
あーーーーーー!!!!! クソがァ!
今や性器にまで整形する社会になっちまったじゃねえかよ!
(小陰唇の整形までもが現代では行われています)
真の女性であるトランス女性(MtF)
『美とミソジニー』ではトランス女性(MtF)についての言及もある。
MtFたちが、少女趣味や過度な露出やボディラインの強調を好むことが、この社会の縮図に見えてくる。
男が作った、男の求める『女性』を『本当に自ら望んで追求する存在』としたら、まさに『真の女性』である。
男性が作った女性とは『女性という性的ファンタジー』である。
現代の女性は社会の求める『女らしさ』にほとほと嫌気がさしていることが多い。
そんな中、社会(男性)の求める『女らしさ』しっかり沿ったMtFはまさに『社会的な女性として完璧』だ。
男性だからこそ叶えられる『女らしさのファンタジー』の追求と体現。
それらを実現できる唯一の存在は、元が男性であるMtFしかいない。
『女らしさ』は男性が作ったものであり、それを元男性が行えば完璧に『女らしく』なれる。
これは非常に理にかなっている。
MtFの過剰な『女らしさ』に違和感を覚える生得的女性は少なくないはずだ。
それは、表現するモノが『男性の中にある女性というファンタジー』であり、それらへの嫌悪ではないのか。
女性は『人間』の“じゃない方”なんかじゃない!!
『美とミソジニー』は男性こそ読むべき書籍だ。
男女平等なんて、この世界のどこにもない。
世界の社会構造が、どこをどう見ても男性のために作られている。
いつだって男性が上位に位置し、評価を下す側にいるように作られている。
それが、『女性らしさ』や、女性に求められる/求める『美』というものから見えてくる。
女性が求める『美』というものが《男性社会》によって作られたものであること、さらに女性はその『美』を持っていなければ《一人前》の扱いすらしてもらえない。
だからこそ、女性は常に『美』を意識して、『美』を求めている。
求めざるを得ない。
女性が本当に『自分のため』の『自分磨き』ができる日は来るのだろうか。
男女平等は、女性だけでは絶対になし得ない。
一番重要なのは、男性の意識改革なのだ。
しかし、男性は意識改革を拒むことが容易だ。
女性がどんなに論理的に説明しても、理解を拒むことが男性にはできるし、論理的に物を言っている女性や、能力がある女性を陥れることが、社会的な構造から簡単に可能なのだ。
さらに、
平等が本当に欲しけりゃ頑張ればいいじゃんwww
そんなこともできないで平等が欲しいとかほざくなよ、女さんwww
お気持ちだけで社会はできてないんだよwww
高い下駄を履いていることに気づかない男さんの典型
これを言えるのが当然であると、多くの?男性が思っている。
アンフェミは『美とミソジニー』をどう読むのだろう……。
どう論破するんだろう……。
どうせ、女の被害者ムーブとでも呼ぶのだろう。
【最後に】
この書籍『美とミソジニー / 著・シーラ・ジェフリーズ』は、こちらから飛ぶことができる、欲しいものリストから贈って頂きました。
贈って頂いた方へ、心からの感謝を申し上げます。