「フェミニズムはトランスと共に」はあり得ない
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前回のおさらい。
それでは第5弾です。
トランスジェンダーとトランス女性たちの希望というか、概念そのものへの否定をようやくぶちかまします。
ここを書くために、これまでの4つがあった?のかどうかはさておいて。
ここに辿り着くまでのわたしの思考の紆余曲折がここまでの4つでした。
今回は、わたしの考えること、持論だけです。
トランスジェンダーは「社会的、文化的性別」への違和でしかなく「身体の性別」への嫌悪ではない。
それを混同して「性同一性障害」のための特例法を改悪して、ジェンダーへの違和のみで戸籍すら変えられてしまうのは、本当に司法と社会のバグだと思う。
「生物学的な性別としての男性/女性」が存在したから「社会的・文化的性別/性役割/価値観」がうまれた。後者であるジェンダーなるものへの違和なら、ジェンダー解体、ジェンダーバイアスを無くせば解決する。
フェミニズムが目指すものはそこであるはずだ。
なのに、トランスジェンダー(旧・性同一性障害ではない)という存在を認めて、あらゆる差別を許さないとし、著名なアカデミアのフェミニストは女性の権利を蔑ろにしはじめた。何事かと思った。正気を疑うほどに。狂気の沙汰だ。
生物学としての男性と女性という性別があるから、社会的・文化的性別というジェンダーなるものがあるのに、トランスに関わる学問はなせ生物学を否定しているのだろう?
意味がわからない。
社会的・文化的性別のジェンダーは、生物学を元に作られたのに、なぜジェンダーは肯定し生物学を否定しているんだ?
ジェンダー(社会的・文化的性別)は、生物学と身体の性別が根本にあるのは明らかだ。
それなのに、まるで「ジェンダーの概念(性自認)を人間は生まれたときから持っている」とでも言うようなトランスという概念がわたしにはさっぱり理解できない。
生物学、身体の性別ありきで存在するジェンダーという概念に対する違和なんぞ、女性なら誰でもあると言えるほどに、本人の意思とは関係なく押し付けられるものだ。
それを、ジェンダー解体、ジェンダーバイアスを無くすことではなく、戸籍を変えるだの、トランスすることで解決をはかるとは本末転倒である。
そこにフェミニズムが加担するなんて、あり得ない。
ジェンダー解体には賛成だ。
しかし、ジェンダー解体をするには、身体の性別による差や差別があることを認めることが必要だ。
それを無いことにして、ジェンダー解体などできない。不可能だ。
社会を見ればわかるだろう?
「ジェンダーに違和があるから、戸籍を変えます!トランスします!」
これで、ジェンダーバイアスが無くなりますか?
「このジェンダーで生きるのは嫌なので異性のジェンダーで生きたいです!」
これのどこに、女性に押し付けられる性役割が変わる要素がある?
トランスという概念は、ジェンダー(社会的、文化的性別)をより強固にするだけだ。
女性のアライの意見を見てきたけれど、ここにまったく気づいていなかった。
けれど、生物学ありきで存在するジェンダーをトランスできるようになることは、ジェンダーを強固にする。
強化するだけで、女性が性規範から解放されることも無い。
トランスが可能な社会では、トランスしない人たちは、そのジェンダーで生きていたい、満足している、違和感のない人と言われてしまう。
それで良いのか?
わたしは身体は女性でジェンダーには当然に違和がある。
だけどトランスは無意味だから、ジェンダー解体を欲する。
ジェンダーバイアスに異議を唱えたい、ルッキズムに抗議したい、そうしてアライをしているという女性は、トランスという概念がジェンダーバイアスをより強固にしていくことになぜ気づけない?
トランス差別に反対することは、性役割を肯定することになるのに。
トランスジェンダーにとって、ジェンダーは必要なものだ。必須だ。
ジェンダーがあるから異性になれるのだ。
ジェンダーが解体されるなら、トランスする必要なんて無いのだ。
トランスという存在が、如何にジェンダーに縛られた概念なのか、なぜ議論されないのだろう。
身体に対する耐え難い苦痛としての性同一性障害と、トランスジェンダーは明らかに違う。
ジェンダーに対する違和の無い人の方が少ないだろうし、女性の多くは女性というジェンダーに苦痛を感じている。それでも身体が女性であるから女性として生きるしかないとしているだけだ。
身体に対する耐え難い苦痛としての性同一性障害になら心を寄せられた。けれど、ジェンダーへの違和なんぞは、わたしにだって当然にある。
でも、男性というジェンダーにも、ノンバイナリーにもなれない。そんなわたしはどうしたらいい?
性自認なんてものを持っていないのに、シスジェンダー、シス女性だと決めつけられていること、これも耐え難い苦痛だよ。
女性という性役割を押し付けられていることに異議を唱えることに関して、トランスという概念は障害にしかならない。
身体の性別で社会にアレコレ決められることが“ありき”の概念だからだ。
そんなことすらアカデミアのフェミニストは理解できないのか?
フェミニズムの何を学問として追求しているんだ?
フェミニズムにトランスの概念を取り込んで、フェミニズムをどこに持っていく気でいるんだ?
女性スペースに関する問題ばかりが取り沙汰される。当然だ。
女性の安全、防犯、生死に関わる事柄なのだから。
それすらをトランスヘイトだとして聞く耳を持たない人に、アカデミアのフェミニストが傾倒している。
女性の性被害においての妊娠の可否/有無を軽視する発言をして、性的マイノリティである、レイプクライシスNET主宰だという人物(現在はBroken Rainbow-japanというLGBTQに特化した性被害者支援団体の人)に「その通りです。妊娠するからと言って被害が大きいのだなどど言ってはいけません」と言われて「ほらね」と専門家のお墨付きをもらったというその仕草は醜悪だった。
現実に性被害に遭った女性に聞いたら良いじゃない。
実体験としてどうですか?と。
わたしは、そのフェミニストに「性被害者として抗議します」と言ったけれど、お忙しい、社会的に地位のあるフェミニスト様は、こんな小さな声には何も反応しないままにいる。
そうして思うのだ。
女性の人権を考えているアカデミアのフェミニストなんていないじゃないか。
トランスという概念は、ジェンダーありきだ。
そんなものを社会で認めたら、ジェンダー解体は永遠にできない。
わたしはトランスという概念を否定する。
お気持ちとして嘲りを受けるのかもしれない(あるいは「トランスヘイトはやめろ!」とだけ言われる)内容の意見は、トランス女性の女性蔑視が苦痛です、性被害で負った障害に配慮がないのはどうしてですか、わたしだけではない意見も、トランスを全肯定しない限りヘイトだとして聞く耳を持たないのはなぜなのか、女性の苦痛や女性蔑視や女性差別はどうして許容されているのか、といくらでも言える。
これまでどんなにも女性たちは訴えている。
そうしてすべてをヘイトだとされてきた。
何が差別なのかも説明することもなく、トランス全肯定の書籍を読むことだけを要求してくることもある。
けれど、明らかな事実としてあるのは、トランスジェンダーたちの、ジェンダーに対する違和は、ジェンダーという概念を全肯定してはじめて成り立つものだ。
そんなものを認めて良いはずがない。
そんなものをフェミニズムが認めることが女性の人権の後退であることは明らかだ。
話を聞いてくれないトランスジェンダーとアライたちは、どうしたら話を聞いてくれるのだろうか?
このままでは、わたしはひきこもるしかない社会になるかもしれない。
盛大に死んで抗議をするか……?なんて本気で考えたくなるほどに追い詰められてしまう人がいることを、トランスを支持する人はきっと嘲笑うだろう。
わたしの苦痛を軽視しておきながら、性自認が認められない苦痛は生死に関わるということを軽視されたと感じたらその人のことを問答無用で「ヘイター」として集団で叩く。
わたしの苦痛を軽視したトランス当事者と活動家は、つまりは性被害者に対するヘイターですね。
性被害者の苦痛を軽視し続けていることを、どうして許容しなければならないのか?
誰も説明をくれない。誰も根拠を言わない。
女性や性被害者たちの生きやすさなんて社会はまったく無視している。見向きもしない。そのせいで、今のわたしは絶望に近い。性被害者は生活すらままならない。それなのに「生活をすることができているトランス女性」より強者とされているのは、どうしてですか。
可哀想だとされたいわけじゃない。わたしたち性被害者には性加害者よりも人権が無い。なけなしの人権でどうにか生存をしている。
それをトランス女性が、オートガイネフィリアが奪っていく。大袈裟なんかじゃない。彼らなのか彼女らなのかの「生活が困難」のレベルが性被害者とはあまりに違う。
正直「その程度で死ぬほどツライの?シアワセなのねー」と思ってしまいます。実際に殺されかけて、死にかけたわたしは、たまに彼ら/彼女らの「生きにくさ」がくだらないと思えてしまう。
こんなことを言ったら当事者とアライに叩かれますね。そして傷つく当事者がいますね。
ええ、わたしはあなた方の苦しみなんてわからない。一生わからない。あなた方がわたしの苦しみをわからないのと同じです。性被害者の苦しみをあなた方が軽視している限り、わたしはあなた方に歩み寄ることはできない。
たとえば。
加点方式で、どれだけ生活に困難があるのかを数値化して可視化してみようよ。 心理的負担が日々の中でどれほどあるのかを可視化してみようよ。 生活面(食事、睡眠、交友、等)も経済面でも、どれだけの困難をお互いが抱えているのか可視化してみようよ。
わたしたち性被害者の苦痛をあなた方は知らないだろうから、性犯罪被害に遭うこと、男性恐怖がどれほど生活に困難を及ぼすのか、数値化して可視化してみようよ。あなた方の困難も数値化して可視化して見せてよ。
ねえ、ミスジェンダリングとアウティングで死んでしまうって騒いでるけど、性犯罪被害者がどれだけジサツしているかは、どうして騒がれないのかな。死ぬほどの事があったんだと納得されてしまうからかな? 羨ましいよ。社会に守られていて。あなたの人権のために社会が必死になっていて。
生産性がなくなるほどにダメージを受けて再帰は不明の性被害者より、トランス女性は社会的な生産性があるから、社会的に価値があるとされてるのかなって思っちゃうよ。 社会の流れは女性や性被害者にトランス女性の生きやすさのための犠牲になることを望んでる。 ツライ。苦しい。もうイヤだ。
性犯罪被害者がジサツしたなら、それほどの事なのだと皆が思うだろうに、なぜその苦しみが社会に軽視され続けているのか。なぜ性犯罪被害者に人権が無いと感じるような生活を社会は強いてくるのか。たまに、さっさと死んでくれと言われていると感じるよ。
そうして、最終的に辿り着いたのは。
トランスという概念そのものの矛盾である。
そのトランスはフェミニズムと共にあることができない概念であるということ。
女性の人権に関わるからとか、安全だとか、そんな小さな(語弊あり)問題ではなく、性役割そのものを肯定することにつながる概念だから、わたしは否定する。
なぜ、これを世界が認めることにしたのか、さっぱりわからない。
ただ、トランスという概念によって得をするのは、性役割を今のままにした方が有利な男性である。
ジェンダーに対する違和という苦痛/苦悩があるなら、ジェンダーなんて解体すれば良いじゃない。
なぜ、そのジェンダーをそのままにしておかなければならない?
異性のジェンダーとして生きたい人は、トランスジェンダーは、異性のジェンダー(性規範)に魅力を感じるからで、ジェンダー解体(フェミニズムが目指すもの)とは真逆の概念であるということがわかるだろうに。
なぜ、ジェンダー(性規範)がないと存在しない概念を、社会が、フェミニストが肯定しているのだろうか。
トランスという概念をよく知らないわたしの姉に、トランスジェンダーの話をした。サッカーが好きなら男の子的、スカートが好きなら女の子的だと学校で教えることもあると言ったら、ぽかんとしていた。
「ごりごりのジェンダーバイアスじゃん」
「ryuchellが言ってたことと真逆じゃん」
わたしの姪が小学生で、トランスについて学校で学ぶこともあるだろうから、育児に追われこういった社会問題について知る余裕がない姉に一応話しておきたかったのだが、姉の反応に本当に安心した。
育て世代でSNSでこうしてわざわざ首を突っ込まない人たちは知ることもない話なのだ。
子育て界隈にはこうした思想が入る余地もないだろうし、同じSNS上でも表示されるものはパーソナライズされてしまっているから、トランス差別が酷いらしいと聞いても、自分事として調べようという人は少ないだろうと思う。
そんなことは無関係に子どもたちはまっさらだ。
そうして先鋭化したトランスの概念を学校で習ってくる。
子どもたちは大人が嘘を教えてもそれを事実として学ぶ。
トランスジェンダーに関して欧米で医療過誤が起きたことを、日本のメディアは報道しない。
女性が女性の人権を訴えようとするマーチで、参加する女性が脅迫されること、危険に晒されることも、そのマーチに卑劣な妨害をするアライの男性たちの罵詈雑言も、周囲を囲まれ罵倒される女性たちの姿も、メディアは伝えない。
都会のど真ん中での、あんなにも異様な光景を、伝えることが無い。
それは、報道に「誰か」が規制を掛けたのではないか?
邪推だろうか?
都合の悪い事柄だとしてテレビや新聞が情報源の人に隠しているのではないか?
トランスの医療過誤を書いた書籍が言葉を生業にする多くの作家たちによって、言論の自由を奪われたことも、出版社に脅迫が届いたことも、別の出版社から出ることに決まっても、発売日には書店に脅迫が届いたことも、どこかのメディアが報じたか?
あの書籍の言論の自由を認めない国、一度でもキャンセルされた国が「日本」だけだったことをメディアは報じたか?
テレビと新聞という、一昔前のアナログな情報収集をしている人には、キラキラコーティングされたトランスという概念だけが届けられる。
異常な社会だ。ジャーナリズムが機能していない国は危険だ。
トランスという概念は生物学での性別からうまれた、社会的・文化的な性別に対しての違和を、トランスすることで解消するまやかしだ。幻想でしかない。
社会的・文化的な性別という押し付けからの解放のための概念ではなく、そのジェンダーバイアスを固定することを全面的に肯定するものだ。
わたしはそんなものを認めない。
性自認はあるとしても構いません。
でも、内心の自認を他者に押し付けないでください。
同性愛者は異性愛者に自身の価値観を押し付けません。
マイノリティとしてLGBTQと一括りにすることは、同性愛者に、とりわけレズビアンに不利益を与えました。
レズビアンのコミュニティをトランスレズビアン(オートガイネフィリア)が破壊したこと、女性への加害としてわたしは怒りしかない。
その上にトランス女性の盾に利用されるレズビアンを、一括りにしていることには、レズビアンでないわたしも怒りを感じます。
トランスジェンダーは、身体に対する耐え難い苦痛がない人を多く含みますよね。
そして、トランスジェンダーの正しい解釈は「自身のジェンダーに対する違和」と言うより「異性のジェンダーとして生きたいという願望」と言う方が表現として正しいように思います。
間違っていますか?
「異性のジェンダーとして生きたい」という憧れでないとしたら、異性として生きるより「ジェンダー解体」こそが必要だと理解できるはずです。
でももし、
トランスジェンダーが「異性のジェンダーとして生きたいという願望」であるなら、「らしさ」等のジェンダーが解体されたら困りますよね?
こんなジェンダーバイアスを強固にし温存する概念に、世界中が傾倒しているなんて、本当に馬鹿らしい。
しかも不利益を被るのは、やはり女性である。いつも女性なのだ。
(こう言うとアンフェが被害者面するフェミとして嘲るが、アンフェは男性であり、自身の功績で手に入れた社会構造でもないものにあぐらをかいて見下すという醜悪な輩である。それを無視して「嫌なら頑張ればいいじゃん、フェミさんw」とのたまう、論理も減ったくれもない輩である)
ジェンダーバイアスは男性優位社会の象徴であり、男性にとって有利である概念だ。
女性はそれによってたくさんの不利益を被る。
トランスはジェンダーバイアスを強固にする。
トランスはジェンダーがあってこそ(強固であればこそ)可能になるものだからだ。
これらをフェミニズムと共になんてできるはずがない。あり得ない。
アカデミアのフェミニストは、一体何を学んで、何のために学問としてのフェミニズムを追求しているんだ?
性的倒錯としてのオートガイネフィリアは「女性になりたいという願望」で、それらに性的興奮する人物で、トランスジェンダー(旧・性同一性障害)よりも明確に「身体違和」と違う動機であるものだ。
自分の身体に対する違和や苦痛と、異性になりたい願望は別のものだ。
別物として扱ってくれなければ困る。
異性になりたい願望は、異性の身体への執着でしかない。
そんな人物にすら「性同一性障害」の診断が出るし、戸籍変更が可能になる可能性がある。
その人物が執着する身体に生まれついた者たちにとって危険がそこにはある。
実際にSNSで目立つトランス女性を名乗る人物の女体への執着は狂気すら垣間見える。女性の身体を持つ者として、わたしは恐怖を覚える。
トランス女性の一部が(多くが?)「レズビアン」を名乗っていることは、女体への執着そのものではないか。
(トランス女性の82%がオートガイネフィリアとも言われている。トランスレズビアンはオートガイネフィリアを指すのだと「乙女塾」には書かれている)
なぜアカデミアはこの思想に対しての議論をしないのか。
なぜ本質を見ようとしないのか。
なぜトランスについて語るときだけ及び腰で、脳内は空っぽに「差別に反対!」「ヘイトをやめろ!」とくり返すだけになるのか。
SWISについて語るときも同じだ。
共通するのは「女性の人権」の話であり「資本主義」にまでそれらが及ぶことか。
そこから導き出されるのは、このままの「資本主義」を続けるために「社会的弱者」を切り捨てること。「女性の人権」を切り捨てること。
アカデミアは強者。そこにあるフェミニズムすら。
学問としてのフェミニズムなんて信用ならない。
アカデミアのフェミニストなんかに「女性の人権」を語れない。
強者として生活しているから。
男尊女卑思想と戦っていると見せかけて、男尊女卑思想に染まっているから、男尊女卑社会で女性の人権を語る場があるのだ。
政治家然り。学者然り。
わたしは、自分が女性の身体であることが憎い。憎くて憎くて堪らない。
だけれども、男性という身体も憎い。そして恐怖だ。
世の中の悪目立ちかもしれないトランス女性の隠しもしない女体への執着は男性のそれにしか見えず、だからトランス女性という存在が怖くてたまらない。
それを言うことがトランスヘイトだとされるのはどういうことなのか?
女性蔑視を指摘すると、女性蔑視ではない!と返答が来る。
もしかして、トランスジェンダーに対するヘイトを指摘された女性たちがどこが差別なのか聞くことのミラーリングだろうか?
それにしては稚拙である。
女性たちはなぜ蔑視であり、差別だと言ったのかを説明するのだが、トランスヘイトだ!とされるものがヘイトである理由は、ちゃんと説明されたことがない。
そもそも、トランス差別と言われるものには見境がない。
トランスにほんの少しでも異議を唱えたらヘイト扱いである。
そうして、現在のわたしは、トランスたちの定義に従って、自身の性自認を問い直してみた。
わたしに性自認なんてものはない。
それがわかった。
トランス当事者やアライにヘイターやらたーふ(TARF)と呼ばれるときに、シスだと散々決めつけられてきたけれど、自分の性自認についてよく考えてみたら、自身の性自認はないのだとわかったのだ。
考えがまとまった。スッキリした。
トランスという概念に反対します。
トランスはジェンダーバイアスを強固にする。
トランスはジェンダーありき。
トランスは性役割を全肯定するものです。
ジェンダー解体と真逆のトランスに反対します。
トランスはジェンダー、性役割、性規範を強化する。
トランスという概念に反対するということは、ジェンダーという概念を否定することだ。
社会的・文化的な性別、性役割、性規範について反対であるということだ。
トランスという概念が存在する限り、ジェンダーは強固にあり続ける。
つまりは、女性という性役割の押しつけもなくならない。
だからトランスに反対します。
性自認は個人の自由です。
それでも、トランスすることを認めていたら、ジェンダー解体は夢のまた夢です。
トランス女性によって女消しが行われることを否定する人たちには、女性への人権侵害を訴えても響かないでしょう。永遠に。
それでも、トランスするということが、ジェンダーありきであることは、論理的に考えれば当然の帰結です。
ミスジェンダリングでの苦痛とは一体何ですか?
社会的・文化的性別を押し付けられることなら、わたしだって苦痛ですよ。
ミスジェンダリングが苦痛でジサツするって、性自認通りの扱いがないことでジサツしてしまうって、想像ができません。
それはわたしがミスジェンダリングされたことがないからだ、性自認が身体と同じだからだと言われそうですが、違います。
わたしは、社会から押し付けられているジェンダーに納得したことはありません。
自身が女性であると自認したこともありません。
異性であると自認したことも、性別がないと自認したこともありません。
ただ、身体が女性だというだけです。身体が女性であるという事実とだけ向き合って生きてきたんです。
それがどんなに苦痛でも、それが事実だから。
自分の身体が女性であることに納得したこともありません。
女性であるから、男性から性被害に遭いPTSDになり生活が困難です。
そして、男性から性的なまなざしを向けられてきたことも、性加害に対して自衛し続けなけらないことにも不満しかありません。
自身が女性であることに納得している女性なんて存在するでしょうか?
社会にある女性という性役割、性規範にも納得している女性なんて存在するでしょうか?
それでも、そんな女性がトランスしないのは、男性という存在、彼らの価値観、彼らの言動に辟易しているからです。
そもそもトランスすることが無意味だからです。
女性が、自分がトランスしたところでジェンダーバイアスは残ります。
だから女性たちの多くはトランスすることが無意味だと理解できます。
トランスに反対する女性たちは、トランスの矛盾を知っています。
問題はジェンダーという概念と、それを社会が押し付けること。
それはトランスで解消できるものではないとトランスに反対する女性は知っています。理解しています。
なにより、身体の性別から逃げられないことを知っているのです。
トランスすることが可能な社会では、トランスしない人はその性別とジェンダーに納得しているとされませんか?
納得なんかしたこともないのに、女性は女性であることに満足し、その性役割にも納得しているとされませんか?
そんなの真っ平御免です。
だから、
わたしはトランスという概念に反対します。
ジェンダーはトランスすれば良いのではなく、解体すれば良いのです。
社会的・文化的性別や性役割、性規範なんて解体しましょう。
そうすればジェンダーへの違和なんてものも自然となくなります。
女性にとって、男性にとって生きやすい社会になります。
ただし。
ジェンダーに固執している人は生きやすくはならないでしょう。
異性というジェンダーにこだわり、異性として認められること、異性のジェンダーでの扱いを欲する人は、ジェンダーバイアスが無くなってしまえば、きっと生きにくいでしょう。
なにより「トランスという概念=ジェンダーの肯定」であることから、わたしはトランスに反対します。認められないのです。
女性の人権のために。
(続く)
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