賢者と愚者

ものごとの見方

賢者と愚者。謝罪の儀式

愚者は許すことも忘れようともしない、世間知らずは許して忘れてしまう。 賢者は許すが決してわすれない。

この言葉が好きです。

許すことができること、忘れることをすること、あえて、忘れずにいること。それについての考えを巡らせたことがあります。

許すことなんてできないことも、許すことが賢いのかな?
忘れたいことでも、忘れずにいることが賢いのかな?

そんなことは難しいと思うし、無意識に忘れてしまうこともある。気づいたらなかったことにしていたとか。

逆に、忘れることも出来ない事柄に、いつまでも振り回されているだけだったり。

ハココは、賢者にはとてもなれそうにない。って、そんなことはまあ、そうなんだろう。

結局のところ、賢く生きることとはなんだろうって、人の意見は賛否聞いて、ちゃんと考えて、考えることをやめないことしか、わたしにはできない。

考えるには、たくさんの意見、たくさんの人の考えを聞かなきゃならない。
知識として、知らなきゃならないことがあって、それに対するいろんな人の意見を参考に、自分なりの答えを出して、常にそれを見直し続けること。

人間は慣れの生き物だから、慣れ親しんだ概念から離れることは難しく、それが正しいのだと時代遅れの考えにこだわることもある。
勤労戦士と社畜って、わかりやすい例だと思う。
同じことなのに全く違っていて、勤労戦士だった人には社畜って考え方は難易度高すぎなことに感じる。

男尊女卑だって、慣れ親しんでしまったら、男尊で生きてきた人に女卑をやめろと言ってもやめられはしない。
それに、男尊で生きてきたから、それが当然だったから、そもそも男尊思考で生きているなんて、思いもよらないのかもしれない

そういう、概念の変化について行けるのかっていうのも、上手く生きることや、他人からの評価につながったりするとは思う。
虐げられていた人側からしても、その扱いが当たり前だったら、疑問にも思わないだろうことで、差別とかの根底にある、いままでの概念っていうのは、やっかいなもの。

前提として、日本は人権に対する意識が非常に低い。薄っペラペラの理解しかないんです。

そんな中で、現在、唐突に?でもないのだけれど、共生社会を目指すことにして、決まりを整備し始めましたね。
そこには性の多様性も認めようってのも、これから絶対に加わります。
様々な多様性を尊重しようって。その中の性の多様性。
こんなにも分かりにくく、こんなにも微妙に浸透し、日本は同性愛に寛容だなんて言われつつ、まったくの差別ばっかしかないのが現状。

その概念の変化にどう対応するのか。個人の考えとか価値観、どこまでを理解しているのか、理解する気があるのか、受け取る柔軟性、いろいろと問われることになる。

賢愚から、概念の話になってしまったけれど、きっと、それまでの歴史に反省をできなければ、新たな概念は受け入れられない。新たな概念への拒否反応を隠して、無理してこうすべき、と新しい概念をもっともらしく発表するえらーいヒトたちは、大抵その概念を受け入れてすらいなくて、お笑いになってしまうことが多々。行動と発言が一致しない。

家柄と、財力に支えられているから、えらーいヒトになれたひとって、能力の観点からどうなんだろうと思うこともあって、学力はあるかもしれないけれど、考えるための地盤みたいなのが一番大切なのに、そこを置き去りにされているように思う。

失言を失言と思っていない、あの態度。
馬鹿にするつもりがなく、ナチュラルにひとを馬鹿にした口調、言葉選び、しゃべり方、行動、態度を取ってしまう。
なんかもう、こっちが恥ずかしくなっちゃいます。
なのに、謝罪をするときの、あの不本意を丸出しで、悪いことをしてなどいない、悪気は無いのになぜ責められる?
一方的な辱めを受けたという被害者面。諸悪の根源ここに視たり!的ななにかを感じるのですが。


頭がいいって、どういうことだろう? その正体は何かなあ? 地位とかは関係ないよなあ。学歴でもないみたい。共感性もまたちょっと違うような。諦めないこと? 地頭とか? スルー力、鈍感力? それとも他の何か?

いや、ハココは優秀ですうなんて口が裂けても言いません。凡人です。ってか、愚か者ですよ。

せめて、利口に生きていたいけたらなにか違ったのかな?
口が利くって書くからして、無理だなって思うけど。
上手いこと、器用に生きられればラクなのかなあ?
立ち回りが上手なら、いい感に、いい感じの人生になる?
生きやすいのかな?
そうやって生きていけたらよかったのなあ?
けれど、聞き分けがいいだけのおりこうさんにはなりたくないし。

わたしは、許して忘れないでいることなんて、本当に苦しかったそれらに対しては、絶対にできない。
忘れないでいるのは忘れられないからで、でも許せるときなんてこない。

でも、許さず忘れずでも、そこからなにかを学び取って、なにかを得ることができれば、マシだと思う。
得られたことは、トラウマ以外のことで、なにか自分のためになるようなこと。

たとえば、ひとを思いやることだったり、寄り添うことだったりかもだし、とはいえ、しなくていい経験をしなくてはならないことは、どう考えても得ではないから、とにかくなんだか、賢さの正体は何処?と思う。

なにひとつつらい経験がないなら、知識をどんなに得ても、的外れの想像しかできないし、でも、幸福の中だけで生きているひとって、ある意味不幸なんじゃないかって、負け惜しんでみる。何にも知らないでの感謝も謝罪も薄っぺらくて。

だからって、苦労したことを自慢するのは絶対違う。
そのひとの背景になにがあるのかなんて、きっと、他人には分からないことで、「察して」とか「空気を読んで」とかの、日本の文化はすごく難しいし、矛盾していて、そこに妙な過信をしている人がいたりで、変な世の中が出来上がっている。

許さないで、忘れないで、それでも、自分なりに生きていける道があるなら、愚かと言われても、立派な生き方だと思う。
許さなくても、忘れなくても、自分を見失わなければ。とらわれてしまっても、そこに縋り付くような真似はしたくない。

賢者って呼ばれるひとたちの、賢さの定義ってなんだろう。
賢いひとは、自分を賢いなんて言わないだろうことはよくわかるのだけれど、その人が認める賢いひとがきっといて、その理由を知りたいなって思う。

愚かなハココからしてみたら、ただの中傷ではなくて、意見としての否定をしていたり、そこにある程度の納得をしたり、させたりすることも出来たり、ひとに知らないことは聞くことできたり、聞いただけでなくてそれを自分の中にちゃんと落とし込んでいく作業をしているひとが、カッコイイなあって、思う。
そうありたいとしているのだけれど。まだまだ全然できない。

というか、許す、許さないの話になると絶対思い出す。幼い頃の儀式みたいなやつ。

「ごめんね」「いいよ」の流れ作業を経て、仲良しに戻りましょうっていうルールで儀式。

これは、謝罪さえすれば何でも許される、と勘違いしないか?
「いいよ」がもらえたら、許された証。そう考えるようになったら、困る。
そして、「ごめんね」と言われたら、許さなきゃいけない。
「いいよ」と言ったら、許したってことになってしまうし、許さなきゃならない。

「ごめんね」と言わされた相手が、どんなに不服そうに「ごめんね」と言っていても、納得できないままにいるのに、「ほら、〇〇くんがごめんねって言ってるよ。ほら、なんていうんだっけ?」大人が、その他のみんなが、許してあげないなんて卑怯だ!という視線で見て、口でも「いいよ」を言わないことを責める。

この儀式、謝って、許す、理想の平和なのかもしれない。
でも、どうしても許せないことを許す必要はない。
謝罪を、許されることを前提にしてはいけない。
謝罪に対して、相手がたとえ「いいよ」の姿勢を見せても、許されたと決めつけてはいけない。そして「いいよ」を便宜上使っても、心の中の許せない気持ちを捻じ曲げる必要はない。

ただ、この儀式をいつまでも覚えていることは、賢者の証ではないだろうか。
一旦、謝罪を受け入れる姿勢を取って水に流そうとする態度は示し、心の中にこの出来事をしっかり留めておく。それが賢者なのか?

幼い頃、賢者になる教育をされるのかもしれない。
その教育はまったく生かされていないひとが多くいる。

謝罪したのに許さないのは悪!と相手の思いに関係なく謝罪を押し付ける幼子の主張がそのままのヒト。

そのときの理不尽な体験から、よほど要求されない限り、頑なに謝罪をしないヒトになり、謝罪アレルギーになる。

そして、謝罪にしろ、その受け入れにしろ、とりあえずその場をやり過ごすだけの上辺だけになり、自他ともに罪を置き去りにすることに抵抗がなくなるひと、形だけの謝罪の儀式はしても受け入れるかどうかを自分で決めることにする、賢者よりの考えになるひと。

謝罪の儀式に関しては、疑問しかなかったから強制されて嫌だった。

でも、あの儀式がなければ、謝罪することに対する思いと、謝罪を受け入れがたい気持ちを学べたし、波風少なく行動する方法も少し知った。

けど、賢者なんかには、なれない。
ただ、わたしが誰かに対して謝ることに真摯になれたし、ちゃんと謝るということは?
そして、それを受ける側の気持ち、受け入れられる謝罪ばかりではないことを、この身をもって知った。

謝罪さえない罪は、相手にとっては罪ではないのだろう。こちらが傷つけられたと感じても、相手は気づかないこともあるだろうことも。
そして、わたしの中で、傷口が開いたままに、謝罪すら受けることも出来ず、謝罪されること自体を怖れる。謝罪したことで相手は罪を忘れるだろうか?

けれど、謝罪が必要なのだと主張しなければ、その相手に自分が傷付けられたことを知らせることも出来ない。
きっと、あのヒトの中で、罪にすらなっていない。
罪であると主張しても、罪であると受け取らないことが一番怖い。

そうなると、自分にされたことは、大したことのないことだった、とみんなに指摘されたかのような気になる。客観的に罪ではないとされることへの恐怖。

でも、その罪を受けたのはわたしだけ、それを罪と感じたのはわたしのこころであって、その尺度は法律に任せるべきなのか、個人で図っていたらきっと問題にもなるけれど、償いの量は個人では決められもせず、押し付けられもせず、ただ、わたしがその罪を忘れない限り、罪があった事実がここに残る。

ねえ、賢者に近づいたかな? いんや、まだ遠いよ。

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