宗教というもの

ものごとの見方

きみは神様を信じるかい?

最初に言っておく。個人的な宗教観で、個人的な意見。
誰の信仰を否定するでもなく、どの神様を否定したいわけでも、どの教えは間違いだとかを言いたいとかでなく。
ただの、ハココの宗教に対する考えでしかないので。
悪しからず、のなだ。

宗教ってなんだろう?

宗教(しゅうきょう、(英: religion)は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。

なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」としている。

「ウィキペディア・宗教(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99)」より抜粋

日本人にとって、特定の宗教への信仰を持つひとは、たぶん少ない。少数派だと思っているのだけれど。

わたし自身、神様っていう存在は信じていない。

でも、たぶん否応なしに、お葬式とかは仏教になって、仏教の墓には入ることになると思うけれど、その教えにも仏教に思い入れもないし、ただ他に信仰もないし、それに対しても何も思わない。

ハココは宗教について知ることが好きな変人。
新興宗教の内容を興味深く読んでいる。その教えに、うーん、と考えたりする。ポスティングの冊子を熱心に読む、珍しいさんかもしれない。
本当は毎号読みたい、と思っているくらい。

でも、まだ信仰したいと思える神と教えに出会えない。
信仰に値すると感じた教えがどこにもない。

神様がいるって時点で、だめ。
神が救ってくれるとか、無いから。
救いたいとか思ってたら、この世界にある不幸とか、それが自分の作った世界だとか、もう発狂ものだ。救いたい、救えない、のジレンマ。
しかもこれは全部自分が作ったものなんて!って。
いるとしたら、神はサイコパス。共感性が無くてはじめて務まる仕事だと思う。

こんなこと言ったら、熱心なにゅにゅん教の信者さんに怒られる。神から天罰が!って。神をも恐れぬヤバい奴だって。
外国で無神論、無宗教主義なんて、言ったら大変なことになる。
邪教の信者とどっちがマシな扱いをされるのかなあ? ぶるぶる。

でも、まあ、この世界が、シミュレーションとか、どこかの誰かの牧場とか、実験室って説も推しているくらいだから。

だけど、その宗教で、教えで、きっと誰かは救われた思いになっている。そのコミュニティに居場所を見つけたりして、心のよりどころになっていたりする。
その宗教を信仰することが自分にとってのプライドや核になったりするんだろう。

でも、生活のすべて支配されるような教えで、救われるのかがハココには理解できない。
そのひとにとっての真理だとかは別にいいのだけれど、何を信じるもたぶん自由で。それでも、その教えが誰にとっても素晴らしいかは、やっぱり違うんだろうなって。

でも、ある日、気づいたんだ。
ハココ、信仰していると言っても過言ではないものが、在るってことに。
経典すら存在せず、教えを説いてもらったこともなく、教祖のような存在もない。布教されたこともない。
自らが自らの意志で、そのものを信仰したいそう考えるの至った、その存在は。

その推しの名は、「猫様」だ。

猫様を信仰するとは

もとより、ハココは猫派。
だって、猫さんは、かわいいから。正義ともこの世界の真理とさえも言えそうなほどに、とにかくかわいいから。

その鳴き声、その毛並み、瞳、しっぽ、仕草。威嚇も攻撃も柔軟性や俊敏さ、どんくささすらも、愛情表現はもちろんのこと、液体化するからだだってそう。
どれもこれも、ハココのツボをついてくる。

猫は、猫であるというだけで、かわいい。欠点すらも長所に変えてしまえる、不思議なパワーがある(ハココに対して強力に)。
そして、猫が今日も猫で、猫らしく猫猫していることに、よろこびがある。

とはいえ、猫はどれもこれも、ツボらせてやろうなんて意識してやっていない。
あざとかわいいとかとはきっと無縁。
自らの欲望に従って、したいことをして、したくないことをせず、そのままの猫で、まるごとかわいがられる存在になられる(ハココにとって)。

それって、理想の共生社会の状態なんだろうなあ、とか思う。
猫が猫であるだけで、猫が猫として生きるだけで、どんな個性も素晴らしい。
まさに理想の社会へのヒントは、人類の(いや、ハココの)猫を見つめる眼差しに隠されているのかもしれない。

すべての猫がかわいらいいからして、猫が尊い。猫であるから。猫であるそれだけで、大切。猫好き(ハココ)の心理。

これをもし、そのままに人間に置き換える事ができるなら。
なんて考えるけれど、どうやらもこうやらも難しい。

とはいえ。猫を信仰するとは? どういうこっちゃ?

猫様を信仰すること、それはつまり。
猫様を愛でたい。猫様の自由を尊重し、猫様が猫様として、猫様らしく過ごす世界を、望む。
猫様のしあわせを願い、猫様の心地よい世界にすべく、猫様のすばらしさにひたすら打ちひしがれ、ハココにが勝手に感じてしまう、猫様への愛を、安らぎを、無意識に与えてくださった猫様に感謝する。

ときに、なでなでを要求されるなら、撫でる。ハココ、幸せ。
膝で眠られる。ハココ、安らぐ。
猫様を拝見させて頂き、観察させて頂き、おもちゃにじゃれついて遊んで頂き、ごはんを食べて頂き、健やかに過ごして頂き。ハココ、至福。
猫様が猫様であること。ハココ、至上の幸福。

この信仰は良いことばかりだ。
信仰対象との共存と試み(神が割と人間の生活に取り込まれているが、まあ置いといて)、その信仰対象のため、自らが破綻しないことこそ、最も重要なこととなる。
猫様の幸せを願うために自己の犠牲はダメなのだ。

それでも、猫様を信仰したくてたまらない気持ちは存在し続け、猫様は信者から衣食住を手にしたり、信者は自主的に猫様に献金(貢ぐ)をする。
なにより信者の生活破綻がもっとも悪であり、猫様からは一切、我を信仰せよ、崇めよなんて言われないし、猫様は猫様であるだけ。
その猫様を信者が勝手に崇める。猫様への感謝で幸福にもなれたりする(ハココは)。

そして、信者は、この猫への信仰を他宗教へ押し付けない(と思う)。犬様への信仰も尊重できるだろうし。
信仰対象のその概念、理念、信者の心は同じであると理解できると思う。

宗教二世の問題を知って

カルト二世、宗教二世の宗教の自由の問題として、大きく取り上げられた宗教というもの。

ハココの個人的な興味で読んでいた新興宗教の冊子。
どれも、全然しっくりこない。救われる感があんまりない。

でも、猫様は、信仰しなさいなんて言ってないのに、うぃんうぃんで信仰できてしまう関係が構築されてしまう!

そう気づいてしまった。

宗教って、自然にひとの心の中で思い描く、大切なもの、大切なこと、大事なひと、そんな相手に向けられていたらいいのに、と思う。

こんなにも科学が発展しても、宗教として、神が光あれってお創りになってない世界であるとは分かっていても、その教えは守るなんて、なんか変だと思ってしまう。
きっと、そういうことより、考え方だとか、そういうところを信仰し、そういう風に生きていたいっていう、人生における信念みたいなものを、そこに見出したりしたってことで、同じ信仰をすることで、秩序や価値観なんかをすり合わせれば、なんとなくそのひととは仲良くなれるって感じたり、そのひとの信じるものと自分の信じるものが同じで、同じ方向を目指している存在として、認め合い、安心したりするんだろう。

宗教って、つまり、自分の大切なもの、ひと、こと、その存在を、推すこと。
推し活と似ている。推しのために、生活を頑張る。推しがくじけそうな心だって照らしてくれて、生きることに意味を見いだせる。
推しがいるこの世界は素晴らしいって感じる。推しを生み出したこの世界そのものに感謝する。
それは、信仰と似てるよね? 同じ推しを、世界観を共有する相手となら分かり合えると感じたり、その価値観の些細な違いで争ったり。

推しを信仰し、推しのその背景にある物語を愛して、心のよりどころにする。
その行為は、まさに信仰だ。
そして、推し活にかかる費用は光熱費だと言われる。信仰とは生きるに必要なものであるということ。

八百万神。いっぱいいる神様それぞれに感謝し、おもてなしをしてきた、日本。
宗教と名乗らなくても、信仰対象になる神はたくさんいて。
八百万神様だって、いまさらちょこっと増えることを気にしない。
日本には、信仰が、神とされるもの、ひと、こと、がものすごい数で存在しているんじゃないかな?

タイトルとURLをコピーしました