ポルノが在ることで性犯罪は増えなかったのか?
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ポルノを規制することについて「ポルノを規制すると性犯罪が増える」と同じくらいに多いのが「ポルノが在ることで性犯罪は増加しなかった」という意見です。
上記のスクショで引用され批判されている方の主張については、わたしはとても良いものだと思います。ぜひ彼の主張も合わせて読んでいただきたいです。
(彼はドキュメンタリー映像作家だそうです)
上記のように、グラフにポルノが登場した時期を重ねることで「性犯罪がポルノで減った/増えなかった」と主張する男性が(女性も)います。
が、このグラフで「性犯罪とポルノにまつわること」の【因果関係】は何一つ証明されません。
こういった主張には「社会の変化」がまったく考慮されていないからです。
性犯罪の件数の推移のグラフが右肩下がりである(よえに見える)ことは、「ポルノが登場したからである」と言い切ることは “できない” ということだけが言い切れます。
ポルノを規制することを主張するなら“ポルノと性犯罪の因果関係” を証明しろ
ポルノが無くなることを受け入れたくない男性はそう言います。
ですが「ポルノが無くなると性犯罪が増える」ということは「ポルノと性犯罪には “何らかの【因果関係】がある” 証明」だとわたしは考えます。
「ポルノが無くなると性犯罪が増える=ポルノは性犯罪の代替行為」でしかないのでしょうから。
そして「性犯罪は重大な人権侵害」であるから「性犯罪の代償行為足るポルノは女性への人権侵害を担っている」と言えるし、それが「必要だ」と主張すること自体が「自分は女性への人権侵害をしたい/性犯罪をしたい」という意味を持っているのではないか。
わたしが何度そう言っても、男性は「そんなことはない」と言います。
これは論理的思考です。でも、否定する男性は想像の域を越えないんだという主張します。多くの男性にとってはこの思考は妄想でしかないそうです。
A=Bであり、B=Cであるなら、A=Cである。
この三段論法と同じ方法の説明なのですが、どこが妄想なのか、指摘してくれる男性はいません。
ポルノ/性売買が規制されると性犯罪が増える。性犯罪は人権侵害。
→ポルノ/性売買は性犯罪の代替行為。代替行為足るポルノは人権侵害である。
反論と言うか、単なる否定の言葉はたくさんきます。(わたしがトラウマ疾患/精神障害であることへの揶揄も誹謗中傷も二次加害もたくさん来ます。)
しかし、ただ「妄想だ」と「論理的ではない」と言い、どこがそうなのか問うと「馬鹿な女には理解できない」と返されます。
論理が破綻しているのも、データが読めていないのも、わたしには男性だと思います。
それらの男性にとっての、わたしが論理破綻していて理解力が貧相な女性であることの証明は「人間は生物であるから本能的な性欲は仕方ない」という生物学を否定していることらしいです。
男性は「性欲」について、または「性売買」について語るときだけ「人間は動物である」と言います。ところが、文明や学問や権力や政治を語るときには「理性的で論理的な人間である」として、男性だからこその《知能》を誇らしげに語ります(ここには必ず「女性は感情的で人間として劣っている」ということが追加されます)。
こんなにも勝手な理論のどこが論理的なのかわたしには理解できません。
なぜなら「女性は《動物》である男性を受け入れなさい。そして《高度な知能を持つ人間》である男性に平伏すべきだ」と言っているのです。それを理解できないのは「女性の知能が劣っているから」でなのです。
もしかしたら「動物の本能である《性欲》を受け入れない女性 “感情的” である」とでも言いたいのかもしれません。
少なくともこの主張をしている男性にとっては「動物である我々は《性欲》に抗えないことを認めることが賢い」と言っているのですから。女性が《不快感》を示すことが「知性で劣る証明」と言いたいのかのしれません。
グラフ:ポルノの登場と性犯罪の推移に【因果関係】は何も無い
このグラフの中で平成になってから【強制わいせつ】が急激な増加を見せています。もちろんポルノは既にあるし、どんどん増えています。
ときに平成14年にネットの普及率は50%を超えたらしい。ここからネットの普及によるアダルトコンテンツとの容易な接触と強制わいせつの増加の関係は読み取れるでしょうか?
下記のグラフは警察庁の犯罪件数の推移のグラフです。
1枚目、事実として強姦件数は右肩下がりです。
それによく似たグラフとして。2枚目の粗暴犯があります。また、右肩下がりの犯罪なら3枚目の凶悪犯も同じです。 それをポルノの登場時期と比べるとします。何か因果関係が見えてきますか? いいえ、ありません。
「ポルノは性犯罪を増やさない」との主張に対して、確かにポルノが登場した後に性犯罪の件数が増えたというデータはない。でも、 だからといって「ポルノが増やすことはなかった証明」ではないのは当然です。
社会はたえず変化しています。警察の操作能力の向上や社会のモラル向上は犯罪率を低下させます。当然ですよね。
社会は変化し続けているのです。
モラルは向上しました。生活水準は上がりました。生活スタイルも変化しました。
女性の人権や性犯罪に対する意識も(多少)変わりました。
他にも様々な変化があったのです。
それらは、このグラフにポルノの登場を重ねたとしても『性犯罪はポルノで減る/増やさない』と言い切ることはできないことを意味します。
しかし、ポルノと性犯罪に【因果関係】はある
これは「マイナスな意味で」証明がされます。
性売買の禁止が『性犯罪を増やす』という研究結果が存在していることから『ポルノ等の性売買の規制は性犯罪を増やす』という【因果関係】が証明されているのです。
この研究がなされるとき大きな社会の変化は起きていません。性売買の規制が最も大きなものとなります。
しかし、これを逆説的に『ポルノが在ることで性犯罪は減っていた/増えなかった』とすることは “できない” のです。ですが、ポルノ規制に反対する男性たちには、それが理解できないようで、いやはや、困ります。
少なくとも『ポルノが在っても【強制わいせつ】は減っていない』というデータはあります。
それだけではなく「小児期のポルノへの暴露が与える悪影響」は様々に研究がされています。
男性にとって【痴漢】は大したことのない、取るに足らないものであるという意識があったりもします。【性暴力・性犯罪】であるのに「痴漢は犯罪」という認識が薄いのです。同じく「盗撮は犯罪」という認識も薄い。理由は司法がそれらを軽視しているからかもしれなません。
男性にとっては抑制のきかない「性欲」を本能として認めることがスマートであり、理知的である証明であり、それをされることを『暴力』だとする女性は感情的で劣っている証明であるとしたら、ずっとこの議論は平行線でしょう。
『暴力』を受け入れることを求められている女性と。
『本能』を理解しない女性を蔑む男性と。
わたしは女性なので、人間の知能がどうたら言っている男性が『性欲』について語るときだけ「理性が効かないことを仕方ない」と言ってのけるのは『ダブスタ』に思う。
女性が男性の《性欲》を『無条件に受け入れないことも《本能》でしかない』のだけれども、男性が人間のスタンダードだとされているせいで、それが「賢くない証明」にされてしまうこと。
けれど、男性は「本能としての性欲を抑えられない動物」であることに加え「賢い知性を持つ人間」であることも認めることを強いている、この『ダブスタ』は一体何なのだろうか。
わたしは「《性欲》は動物として仕方ないこと」とすることは『人間の道徳』や倫理や知性や理性の【敗北】だと思う。
男性にとっては考えないことに対してデメリットがないから、男性たちはこれ以上を考える必要は無いとしただけのことでしかない。
性売買が規制されたら性犯罪が増えること
そのことについてはこの記事で詳しく書きま
世界のどこにも『ポルノや性売買が性犯罪を減らした/増やした』というデータはありません。
しかし、ポルノや性売買が規制された国では社会には大きな変化がないにも関わらず『性犯罪が増加する』というデータが存在しています。
でも、そこで思考停止にならないで欲しいのです。多くの男性がここで思考停止状態にいます。
『性売買が規制されることで性犯罪が増える』ことは『性売買で性犯罪を減らしていた』ことと単純なイコールでは結ばれない。当然です。
『性売買が規制されることで性犯罪が増える』ことと『性売買があることで性犯罪は増えない』こともイコールにはならない。当たり前です。これがわからないのに論理的思考だとかほざくのはやめてほしい。
ですが、『性売買が規制されたら性犯罪が増える』なら『ポルノや性風俗は現代日本では性犯罪を抑制している』可能性はあります。しかし同時に『性売買を通して性犯罪を疑似体験』して『性加害欲求/傾向を高めている』可能性もあるのではないか。そうだとしたら、それらが突然規制されたら、できなくなってしまったら『性犯罪が増える』のは当然のことです。
『ポルノが規制されたら性犯罪が増える』のであれば『ポルノは性犯罪の代わりとして機能している』と言えます。
そんなものが必要だと言って憚らない男性は何だ?
なぜ、堂々と公言できるのか。
『ポルノが無くなると性犯罪が増える』なら『ポルノは性犯罪の代わり』であり『ポルノ視聴で性犯罪を疑似体験している』のではないか。
つまりは『ポルノは潜在的な性犯罪者を増やしている』とも言えるのではないか。
それを恒久的に保つことの意義などわたしには理解できない。
性売春の合法化で性犯罪が減る。
当然だろう。お金を払えばいつでも『性犯罪を疑似体験することが可能』なのだから。
わざわざ犯罪として行うなんて馬鹿らしいだろう。
ポルノや性売買が性犯罪の抑止力になる/なっている』なら、それらは『性犯罪の疑似体験』ではないか。犯罪としてカウントされずに性犯罪を行っているだけでしかない。
性売買の合法化は、性犯罪の合法化だ。
それをされる方は堪らない。
お金で性犯罪を疑似体験させるのだから。しかも訴えることもできない。
「金を払った」で免責される犯罪は性犯罪だけだ。
性売買が合法化されても、性風俗の従事者の待遇は改善されない。
性犯罪を合法的に行いに来る客の相手をし続ける労働は、合法化されればさらに劣悪となることは想像に難くない。
だからといって規制されたら地下に潜るらしい。(と言って反対する意見がよく見られる。)
でも、それは本当でしょうか?
「地下に潜る」とは?
性売買を規制すると地下に潜る。そう言う人が多いです。
けれど、いまですら違法な性売買が行われているではないですか。
それに、地下に潜ってまで性売買が行われるのは、売る女がいるからではないのです。買う男がいるからでしかないのです。
売る女なんていなくても作れる。買う男がいる限り。昔からそうやって作ってきたし、現代も社会構造が女性に体を売らせるための様々な理由を作り出して、自ら売らせる。
現在はそうしないと違法になるから、自ら売るように社会が仕向ける。
しかし、現代は女性の権利が叫ばれ、女性の体を買いにくくなった。
だから今度はセックスワークなどと唱えて買いやすくする試みがある。
赤線の復活でしかないが、それを良しとするフェミニストは一体なんだ?
女性の安全などどこにもなく、性犯罪を合法化することで、性犯罪を透明化するだけではないか。
たとえ、ポルノと性風俗で性犯罪が抑制されていたとしても、AV女優や性風俗従事者に感謝なんてできない。
生贄に、犠牲になってくれて有難う? そんなの無理だ。
彼女たちに感謝すべきと言う男性もいるが、加害者が加害しながら「お前じゃなくてよかったな、この女に感謝しろ」と言っているなんて、あまりに醜悪だ。
殴られている人を見ながら「私の代わりに殴られてくれて有り難う」と言えるか?
「私のことは殴らないでください。その人をいくら殴っても構いませんから」なんて言えるか?
殴っている輩に「殴られたくないならこいつを殴ることをお前も肯定しろ。そうすれば代わりにこいつを殴ることにしるし、お前のことは殴らない」と言われ、「こいつがお前の代わりに殴られてくれてるぞ。感謝しないとな」とウエメセの暴力的言動に「はい、有り難いです。どうぞその方を好きなだけ殴ってください」と感謝を述べられるわけがない。
「金は払ってあるから気にするな」とか「本人の同意がある」とか無理だから。
なぜ性犯罪は買うことができるんだ?
人は欲しいものをときに法を犯してでも手に入れる。
女性が性を売らないなら、無理矢理にでも手に入れる。
公に買えないなら闇市で買うことになる。
だから規制したら商品の女性は危険に晒される可能性が高い。
しかしそれは売る女性が悪いのではなく、女体は買える/買えばいいという常識があることのせいだ。
市場からある人気商品が消えても買いたい人がずっといるなら、どうにかして売ろうとする人が現れる。けれど売買が禁止されていたら、売る側も買う側も闇市に流れる。
売らなきゃいいではない。売らなかったらどうせ力ずくで手に入れる人間がいる世界で、売らなきゃいいは通用しない。
禁酒法だってそうだった。それに学べよ馬鹿女。
男性にそう言われた。
でも、女性はモノじゃない。だから売買をしてはいけない。
金と同意で人身売買を免責できるか?
金と同意で犯罪行為を免責できるか?
性売買が禁止となれば性犯罪が増えるんだろ?
なら、性売買で購入しているのは性犯罪の行為だったということになるじゃないか。
もし、ポルノや性風俗があることで性犯罪が減っていたとしたなら、ポルノや性風俗で購入していたものは性犯罪であったと言える。それによって性犯罪が減っていたなら、性犯罪が減ったことなんて1度もない。
ポルノや性風俗の有無の違いは、無差別性犯罪か、それ専用の相手を用意して性加害するかの違いではないのか。
生贄システムの維持を男性は求めているのか?
生贄になることを躊躇わせないように、
「生贄となることは素晴らしい」
「生贄であることは悲しくない」
「生贄は誇り高い」
そうやって洗脳して。
生贄の意義を説き、自己肯定感とモチベーションをあげて。
生贄の社会的地位を向上させて。生贄を憧れに変えて。
ポルノは男尊女卑のプロパガンダだ。
ポルノを視聴すること、性風俗を利用すること、それらに何の問題も無いのだと疑わない男性があまりに多すぎる。男女共に洗脳された人たちがいる。
「嫌なら体なんて売らなきゃいい」
男性がこれを言えるのは様々な特権があるからだ。そして、男性には性を売るための洗脳も施されていないのだ。
女性の売買は可能だなんて概念さえなければ、女性も売らない。
女はいざとなったら体を売ればいい、それが可能だ。年頃になると誰もがそれを知ることとなる。だからいざとなったら売ることをする。
男性の体にだって需要はある。けれどいざとなったら売ればいいなんて、社会に概念として馴染みがない。
だから売らない男性が、だから買われない男性が、女性に対して「売らなきゃいい」なんて言う権利があるだろうか。
女を買って一人前だなんて文化が一昔前にはあった。
買うと簡単に言ってのけるが、商品は人間だ。
人を買うことを「売るから悪い」って、あんたのモラルはどうなのか。
しかも売る女がいなくなれば力技に出る。男性の意識の問題ではないのか。
地獄を知らない人が言う「綺麗事では生きられない」
ポルノが在ろうがなかろうが性犯罪はある。
だからポルノの規制は無意味だ。
そう言う人もいる。
しかしポルノがヒトの脳に悪影響を与えることが研究されている。
そして性売買ができることでヒトの価値観は狂っているとすら言える。
「奇麗事だけでは生きられない」
「被害者がいない世界は不可能」
性売買についてでこれを言うのは圧倒的に『性暴力に晒されたことのない男性たち』である。
暴力の被害に遭わない立場にいて、暴力に晒されたこともないままに『被害者たちに改善することは不可能である』と言ってのける。安全圏で生きていながら『奇麗事が完全に失われた世界』で生きる人が、必死に決死の思いで「この社会を変えなければならない!」と叫ぶその口を、奇麗なおべべのままに「そんなことはできない」から『君たちが犠牲になればいいんだ』と言って塞ごうとする。
わたしは怒りでいっぱいだ。
地獄を知らない人ほど『奇麗事では変わらない』と言う。
地獄にあるのは『奇麗事』だ。地獄の希望は『奇麗事』なんだ。
わたしが嫌いなのは地獄を知らない人の言う『奇麗事』であり、地獄を知らない人の『奇麗事』では何も変わらないだろうと、わたしだっても思っている。
「奇麗事では変わらない」
そう言っている人は『奇麗事を心底欲したことがない人たち』だ。
「被害者を0にすることは不可能だ」
そう言っているのは『被害者として生きていない人たち』だ。
男尊女卑思想と共に歩んできた『資本主義』が世界や人類を進歩させたのかもしれない。
しかし、女性は劣っていないと科学的に証明されている中で、女性は劣っていることにした、このままの形態の『資本主義』を維持しようとすることが可能であるはずがない。
そして維持したいのが『男性ばかりであること』はあまりに歪ではないだろうか。
虐げられてください。虐げられない側がそう言っている。
それが人類のためです。虐げられない側が言うのだ。
男尊女卑であることの正当化に『資本主義』と『人類の存続』を掲げても、女性には虐げられるメリットは無いし、そもそも理由が、もはや何も無い。
性暴力による認知の陰性変化
違法か合法かの真偽不明のままに「合法です」といった “てい” でサブスクリプションの形で販売されている個人撮影のAV、ファンサイト型のプラットフォームがあります。
わたしにとって、このサイトは生死に関わるものであり、ゆえにあっては困るものです。
生死に関わるというのは誇張した表現ではありません。わたしはこのサイトの中で最もヤバそうな管理人に素体として応募する旨をフォームから送ってしまったことがあります。
本当に絶望したとき、わたしにとって最も相応しい「最期」を、このサイトなら叶えることも可能だからです。
多くの紳士のみなさんが、本当はやりたいけれど、“自発的に” とか “女性に承諾を得て” 撮影するとなると、無理となるようなことをするために「わたしを使ってほしい」という、わたしの願望として叶うサイトであるからです。
自発的に持ち込み企画でやってしまいそうで、困っています。
その後のわたしの生活なんか、わたしも知ったこっちゃありません。自死しようが社会的入院だろうが、廃人になろうが、それがわたしに相応しいから、わたしはそうされたい。そうされるべきで、そうされないことを許容しているわたしは、悪だから。
こんなこと、多くの人に理解不可能でしょう。男性だけでなく、女性も理解できなくて当然です。
何なら、性暴力被害者であっても理解できない人が多いと思います。
わたしは複数回の性暴力・性犯罪によるトラウマでの認知の陰性変化が著しく「性的虐待を受けられない環境」に不安を覚えます。恥辱と凌辱の限りを尽くされ、性奴隷として、オモチャとして、モノとして、乱暴に使われて、壊され尽くして、死んでしまえばいい、わたしにはそれが相応しいし、それをさせていないなんて、わたしはなんて最低最悪なんだ!とまで思ってしまう状態にあります。
これは事実です。
多くの人が読むことにさえ拒否感を示す「綾瀬女子高生コンクリート殺人事件」の被害女性のように、または「バッキー事件」の被害女性たちのように扱われることが、内容の詳細を知った上でわたしにとって最も相応しいと本気で思っていて「そうされなければならない」と強迫的に思ってしまっています。
これが、性暴力のトラウマによる「認知の陰性変化(ネガティブな変化)」だということを知って下さい。みながそうなるわけではないです。でも、大なり小なり、性暴力のトラウマは、性的なことに関して(他のことに関しても)こうした認知の陰性変化をさせるのです。わたしはそれが著しく、本当に酷いものとなって残っています。
しかし、それを治療し得る治療者は日本は少なく、また高額であることが多く、わたしのこの後遺症は放置されているとすら言えます。
適切な治療を受けられたなら改善はあります。でも、わたしにはその経済的余裕がない。経済的余裕がないのは「トラウマ」のせいで、就労できないからです。さらに日本の社会福祉はトラウマ治療について非常に消極的です。
わたしはこの無限ループの中にいます。
日本はトラウマ後進国(敢えて発展途上国とは書きません)であり、様々な生存者(サバイバー)は放置されているのが日本の現状です。
性暴力被害者が性売買やポルノに出演することを「自由意思」「自己責任」と言う人たちは、性売買をしなければならない、拷問にしか見えないポルノの素体にならなければならない、そういう強迫観念のせいでそれをしてしまいたいわたしのそれを「自由意思」「自己責任」と呼ぶのですよね。
治療環境が無い日本で治療できないでいることも、わたしの「努力不足」と言うのですよね。
なあ、あんたら、すごく残酷だよ。どんなウエメセだよ。
はるか高いビルの中をエスカレーターで移動するあんたらから、その外側で雨に打たれているわたしに、ビルの中に入れもしないままにいることを「社会の責任にするな」と言われるなんて。
山頂までの崖をロープウェイ方式で登ったあんたらから、道具がないままにわたしがロッククライミングはできないと嘆いていることを「社会に他責するな」と言われるなんて。
あんたら、醜いにも程がある。醜悪なんてもんじゃねえよ。
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