TEAFたちはトランスジェンダー
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身体女性たちが、防犯やその権利を守るためには、もしかしたら「トランスジェンダーを名乗ることが近道かもしれない」思う。
身体女性たちが反トランスを掲げるのは「フェミニズム」の観点からである。
フェミニズムは「身体によりジェンダーを押し付けられることに対して異議を唱えるもの」だとわたしは考えている。
つまりは現在のジェンダーロールに異論があるということ。女性として扱われることに異論があるのだ。
それはトランスイデオロギーではトランスジェンダーにカテゴライズされる。
つまり、TEAFと呼ばれる女性たちも、性的マイノリティであり、トランスジェンダーなのだ。
これが、身体女性の権利やスペースを訴える方が近道なのではないだろうか。
確かに、女性として抑圧されてきたわたしたちは、女性としての人権を欲している。正攻法で、女性として権利を勝ち取りたい。
しかし、背に腹は代えられないと最近本当に思う。
トランスジェンダーについて語るとき「ステレオタイプ」の「ジェンダーの押し付け」に対する批判が主なものとなる。
それは一見したところフェミニストたちと同じ考えなのだが、トランスたちは「ステレオタイプのジェンダー」の中にグラデーションがあるとして、あなたの性別のタイプ(性の多様性)は「(ステレオタイプの)男性的?それとも、(ステレオタイプの)女性的?」と聞いてくるのに、なぜか通じない。
反トランスのフェミニストたちは、それこそが「ジェンダーロールに縛られている考え方であり価値観だ」と訴えているのに、なぜか通じない。
表現したい性は「(ステレオタイプの)男性的?それとも、(ステレオタイプの)女性的?」なんて聞かれているのだと分かるから、ジェンダーの押し付けに反対するフェミニストたちは異議を唱えている。しかし返ってくるのは「誰が何を着たって良いだろ!」である。
話がまったく通じない。
わたしたち、反トランスを掲げるフェミニストのTEAFたちは、女性ジェンダーの押し付けに反対をしている。女性ジェンダーを押し付けられたくない人が多いからそうなのではないか?
女性だからこうしなさい。女性だからこうあるべき。
それを言われるのが嫌だと言う事は、彼らの言うところの、「トランスジェンダー」ということになる。
異性を自認しているのではないから、「ノンバイナリー」の中の性自認がない「Aジェンダー」或いは自分のジェンダーは不明であるという「クエスチョニング」になるのだ。
その土俵に上がって戦ったほうが「身体女性」の権利を守るのに近道ではないだろうか。
だって、わたしたちは「トランス」に含まれる。
わたしたちは「性的マイノリティ」だと解釈されて然るべきなのだ。
なぜなら「女性ジェンダー」をわたしたちは押し付けられたくないのだから。
そして、わたしたちは「女性ジェンダー」に嫌悪しているのだから、明らかに「トランス女性」とは違う「ジェンダー」である。
わたしたちは「トランスジェンダー」に対する非道な差別には反対する。
トランスや同性愛者だからと収監される、就職に不利になる、そんなことは許されない。
だけれども「(ステレオタイプの)女性ジェンダー」に親和性を持つ「トランス女性」とわたしたちは違う。
その事実は明らかであるから無いことにしないでくれまいか。
わたしが「トランス」は「ステレオタイプのジェンダーが存在しなければ存在し得ない」と言うのは「(ステレオタイプの)男性的?それとも、(ステレオタイプの)女性的?」と聞いてくるのが、トランスたちの在り方だからだ。
その表現をすることは構わない。個人の自由だ。
しかし「ステレオタイプの女性シェンダー」に嫌悪を示している身体女性たちに「(ステレオタイプの)男性/女性ジェンダーの中で自分はどうなのか?」と考えて「自身のジェンダー」を自認した人たちから「同じ女性です」と言われても本当に戸惑いしかないことをわかってほしい。
トランス女性はわたしとは同じ女性ではない。TEAFたちは「ステレオタイプの女性ジェンダー」嫌っている。
だから「ステレオタイプの女性ジェンダーに親和性があり、自身はそれだと言うトランス女性」と同じではないのだ。
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