草稿:「命令と快楽」—語られなかった身体性の記録

性暴力を許さない

語られなかったものを、語るために

わたしには、伝えたいことがあります。

この世界で語られなかった声、無かったことにされてきた記憶、そして「それでも生きている」身体の感覚を、わたしは書き残したい。

これは、誰かの学術研究でも、傍観者の観察記録でもありません。
わたし自身の体験、わたし自身の言葉です。

わたしにはこのブログ『ハココの森』があります。
この森にあるすべての言葉は、わたしの内側から生まれたものです。

今、わたしはこの「森」の記録を一冊の本にまとめよたいと考えています。
Kindleでも、ブログでも、できるだけ多くの人に届く形で無料公開したい。

そして、どうか忘れないでほしい。この語りが「わたし自身の思考」であることを。誰かに書かれたのでも、誰かの代理でもない。これは、わたし自身の声です。

今、わたしが記録しようとしているのは、「記念日」のことです。
わたしの中で何かが失われた日。5月16日。
毎年、その時期になると記憶や感覚が麻痺し、過ぎてからようやく「また来ていた」と気づく。
他人にとってはただの数字でも、わたしにとっては“再発する時間”です。

けれど、世間の言葉はあまりにも無遠慮で、臨床の言葉はあまりにも整いすぎている。それらはわたしの感覚にはそぐわない。

だから、わたしは自分の言葉で書きます。

快感と被害が交差すること。
被害とされないことで自己否定が深まること。
善意の言葉が暴力になること。
「あなたは異常じゃない」が呪いになること。
——これらを、きちんと書きます。
逃げずに、真正面から。

この森から発信される言葉は、誰にも奪えません。

もし、誰かに届くなら、それはきっと「語れなかった誰か」にとっての道しるべになるはずです。
わたしはそう信じています。

もし、興味を持ってくれた人がいたら、どうか待っていてください。『ハココの森』から生まれるわたしの記録、わたしの思考を、形にします。どうか、わたしの言葉で、わたしの存在を覚えてください。

まずは誰かが言葉を紡がなければならない

これはわたしの持論である。わたしが現在の臨床心理の中にある説明では自らを救い得ないことから、自分を救うために思考して、導き出した、わたしなりの答えだ。

Ⅰ.思考の核

誰にも語られてこなかった領域の、語りのはじまり。“観察される存在”としてしか扱われてこなかった「被害者」が、自ら語るという構造の転換。それは、語りの自由と精神の安全の両立を求める、極めて危険で、しかし希望に満ちた革命のはじまりである。

II. 仮説整理

仮説1:性的迎合の早さは、被害者の「自己価値の形成様式」を決定づけるのではないか?

早期に迎合した被害者は、自身の「性の価値化」を通じて生存戦略を形成しうる。

一方、迎合できず破壊された被害者は、「自己の破壊」に性的快楽を見出す可能性がある。

仮説2:性的快楽がトラウマと結びつくとき、その「快感の主体性」は誰に帰属するのか?

命令や支配に反応する身体。だがその快楽は、自発的なものではない。「命令に従う」ことではなく、「命令に逆らえない」状況に対する反応としての快楽。それは、性癖ではない。後遺症であり、ねじ曲げられた魂の反応である。

III. 記述の視点整理

A. 主観記述(わたしの体験)

危険だと分かっていても、自慰という方法に逃げることで命を守ろうとしている。「脚を開け」と命令された妄想だけで、心身が抗えないほどの興奮に支配される。この反応を「性癖」だと言われると、声をあげられなくなる。違う。これは、“未消化の絶望”だ。快感は「命令に従うこと」に反応しているのではない。「逆らえなかったこと」に反応しているのだ。この感覚は、支配・被支配の構造に埋め込まれた快楽であり、主体的な選択ではない。

B. 他者観察・記憶素材(補助線)

フェミニストの語りとの対比:
「迎合による生存」と「迎合できなかった身体性」の断絶。

AVに出ていた少女の“目”:
無表情、沈黙、抗えなかったあの目に、自分の目が重なる。

風俗従事者の語る“気持ち悪さ”:
わたしの感じる「快感」は、むしろ「解離と破壊」の産物。

トランス的な身体快感:
明確な性的指向とは異なる、“感覚の裂け目”としての快楽。「最後まで抵抗した」という体験と、それゆえに「死に至る暴力に幻想を抱いた」経験。

IV. 倫理的配慮と今後の方針

この記録は、SNSなどの公開空間には向かない。学術・文学・思想という「安全な形式」においてこそ意味を持ち、暴力的誤読から守られる。あなたの語りは、観察される性・語られる性からの脱却を目指している。いまは語ることをやめないこと、そして語りの場を守ることが何より重要である。


これを書いたのは、深刻な性犯罪被害を受けてから16年目の同じ日だった。わたしはその日、はじめて性的な破壊衝動に打ち勝った。

自己修復の試みとしての「再演」の定義と、それを越えた初めての勝利【追記1】

何十分も妄想の中で加害されていた自分を思うと、吐き気が襲ってくる。あまりにも容易く命令に逆らえないこと、その屈辱と絶望に、心身が性的に興奮する――それが、わたしの現実だった。

もし「絶望のやり直し」を、主体性を取り戻す試みとしての再演と定義するならば、再演の意味は、「自分から終わらせに行くこと」によって、主体性を獲得することになる。

だが、それはあまりにも救いのない行為だ。再演は、自分で“終わり”を引き受けるという形式をとるが、きっかけだけに主体性を持たせても、結果は変わらない。破壊は破壊のままだ。

それでも、今日、わたしは初めて、自傷衝動(性的な自己破壊衝動)を“やりすごした”。誰の陰茎も再び挿入されることのないままに。命令の妄想に屈することなく。

この一回を、わたしは「勝利」と呼びたい。本当の「勝ち」とは、再演に囚われずに、ただその衝動を生き延びることだったのかもしれない。

陰茎に屈しなかった初めての「勝利」と、それをもたらした「わたしという思想」【追記2】

わたしは、うまれてはじめて、自分の思考によって自分を救い得た。

どんな治療者の言葉よりも、わたし自身の思考が、言語化が、語りが、わたしに「成功体験」をもたらした。
たった一度。そのたった一度が、どれほど困難だったか。これまでわたしは、たったの一度も「陰茎を挿入されたい衝動」を抑えることができなかった。

わたしには、他の選択肢がなかった。だからわたしは、間違っていない。選べなかった私には、選べなかったという選択肢しかなかった。
でも今日、わたしは「選択肢がないという状況」そのものに抗って、「選択肢を作る」という選択をした。

社会を見返したい。
この言葉を後世に語り継いでやりたい。
普通の人たちは驚くだろう。きっと、笑うだろう。
「こいつなに言ってんの?」「マジかよwww」
――きっとXでは「草も生えない」とまで言われるだろう。

でもわたしはもう気にしない。
草原があろうとなかろうと、
わたしの真実は変わらない。
草が見える者には草が、
不毛が見える者には不毛が、
そして、わたしには、
「勝利の栄光」だけが見える。

わたしは、心理士の資格を持たずとも、
自らという症例に臨床を行ってきた。

わたしは、既存の哲学に触れずとも、
自らの哲学を持っている。

わたしは、学問を修めずとも、
自分のための学問を創造している。

わたしという症例、
わたしという学問、
わたしという思想。
つまり――これは、
わたしの信念であり、
わたしの生きた証であり、
わたしの生きる意味であり、
わたしの価値であり、
わたしの存在だ。

「我思う、ゆえに我あり」――わたしは、思考するほどに実態を帯びていく。思考するたびに、わたしの中に閉じ込められていた世界が、社会と接続されていく。

それはまるで、全知の神のように――。

なんてね、
でもきっとこれは、「賢者タイム」なのだろう。妄想自慰の果てに、長く続く「賢者タイム」。
だからわたしは、いつもあの男たちに言ってやるのだ。
「おなごもマジイキしたら、賢者になるぞよ…」と。


このわたしの思考をSNSに流してしまえば、悪意ある誤読から守れない。

でも、これらの思考をいち早く共有すべきだと思った。

身体の誤作動だと言われることで、どれだけの人が救われるかということ。心的外傷の治療の場で話されるのは肯定ばかり。あなたは正常だ、そればかりをくり返される。

違う、わたしは、あのときの自分の身体反応を絶対に受け入れなられない!
だからいまもこうして、意味のわからない衝動に駆られて、壊されようとしてしまう……。
それを本当に性的快感だと認識してしまうからこそ、自分を責める。あまりの快楽に屈する自分を恥じる。欲しいと言うしかできない自分を嫌悪する。

そんな人たちは、常に言葉を語れない。

たとえ臨床の場にいたとして、症例報告するほどに、研究として成り立つ安全が保てない。
「言葉がないから」
説明がないから、自分を嫌悪し恥じることしかできない。
そのままのあなたで正解だと言われることが、苦痛。そのままであることが嫌で仕方ない。そのままが自分なのだと言われたら、自分を嫌うことしかできない……。

そんな評価をされる限り、わたしに安息はない。

この評価は、性暴力被害によって被虐嗜好に目覚めたという文脈を強化さえしている。

わたし、いつも不思議に思う。

会う男性がみんな口を揃える。
「前によく遊んでた子も同じだった、君と同じような、感度良好、まるでポルノの中からでてきたみたいで、そうしたプレイをノリノリで楽しんで、いまもこうしている君と同じようにね」
そんな人、どこにいるの?っていつもわからない。

だって誰も話してない。
でも確実に、わたしが会う男性たちが証言する。前の子と同じって。そして、「その子も酷いリスカの跡だったなあ、でも全然普通なんだよね、本当に君と同じでさ」なんて言うのだ。

わたしは、いるのだと思う。単なるポルノ脳じゃなくて、わたしと同じような症状を示している性被害者が潜在的にたくさんいのだと思う。
いない方がおかしい。この日本だもの!

迎合した人の話は比較的受け入れやすさが出てきた。
でも、その瞬間にあまりにも強烈な快感を味わってしまった人は、一体どこで被害だと話せるの?
だれになら、安心して吐露できる?
治療者?まさか!
だって、ありのままのあなただったと言われるんだから!そんなの耐えられない!!

ツイッタランドの男たちは、間違いなく単なるポルノ脳で、空想にしかその存在はいないし、見たことも相手をしたこともないから、リアリティがない語りになる。

でも、間違いなく、そんなふうに、現実でもAV女優並の身体反応あって、二次元のような、あり得ない展開をみせる女性がいる。

間違いなく、いる。たとえば、わたしとか。

  • 「被害時の性的快感は自然な身体反応」と言われることが、かえって苦痛になる当事者がいる
  • 強烈な性的快感をともなった性被害に対する社会的・臨床的語りが圧倒的に足りない
  • 語りたくても語れない人々が沈黙を強いられているその沈黙が、結果的に加害者のため迎合の言説(=快感を覚えた自分を“自然な反応であり間違ってない”とされることで)を補強している
  • 「ポルノ的存在」として消費される身体反応が、被害の証左としては認識されにくい
  • 実際には、ポルノ脳ではなく、強烈な被害の記憶と快感が絡み合った“本物の身体反応”をもつ人間がいる。しかし、誰もそれを語らない

そのような存在が“いないことにされている”こと自体が問題であり、わたしはその沈黙に抗い、その語りを始めようと思う

快感を覚えた身体が、自分を裏切ったように感じる。
快感を拒めなかったことを、被害だと認めてもらえる場所は、いったいどこにあるのか?
「そのままでいい」という言葉に救われる人もいる。
でも、わたしの“そのまま”は、破壊的な衝動でできている。
わたしはそれを語った。
だからこそ問いたい。
わたしたちは、どこでなら「語るに足る存在」でいられるのだろう?

  • 「身体の誤作動」としての説明は臨床では語られない
  • 肯定一辺倒な臨床の語りでは、自己嫌悪や羞恥に沈む当事者が救われない
  • 「快感」があったがゆえに、「これは被害じゃないのでは」と悩み抜く当事者の存在
  • 「同じような子がいた」と男性たちがす言う証言の数々と、その存在がどこにも可視化されない矛盾
  • 「性的快感と性的被害」の交差が語れない苦しみ
  • そして、「そのままでいい」という言葉が暴力として作用

望まない快感を経験した人に本当に必要な語りは、現代の臨床心理で足りているのか?
自然な身体の反応だなんて絶対に言われたくない。認めたくない。そう言われる限り、わたしは自分を嫌悪する。自分の身体に裏切られたと感じ続ける。
わたしは、あれは自然な反応だった言われるより、あまりに異常な状況だから脳が処理しきれなかった、だからバク、エラーを起こした、身体反応も誤作動しただけだった、つまり、わたしは至って問題ないのだ。わたしはそう言われたい。あのときの身体反応は異常なものだったのだと、わたしは言われたい。

レイプ、強姦をされていたときに望まない性的快感を得たことを、自然な身体反応だと言われることの苦痛。そう言われる限り、自分を許せない。被害として、苦痛だとして話せない。
本当に自然な反応だというなら根拠を示してください。誰が被害時の性的快感が自然な反応だと証明できますか。

「語る力」としての臨床ではなく、「黙らせる装置」としての臨床

被害時の性的快感に関して、「自然な反応」と語る言説は、主に解剖学的な性器の機能(刺激に対する自律的反応)を根拠にしている。たとえば、膣潤滑液の分泌や勃起といった反応が「交感神経や副交感神経によって条件反射的に起きる」といった説明になっている、とわたしは理解しています。

しかし、この説明には重大な前提の欠如があります。
誰の、どのような状況において観測されたのか?
その反応が、苦痛の中にある本人にとってどう意味づけられているのか?

ここにおいて「自然な反応」という説明は、経験の意味を無視した身体の機械的解釈にすぎません。

強姦時の被害者の性的快感という身体反応は観察も観測も不可能なため、それが自然な反応であることは証明不可能な仮説でしかない。これは科学哲学的です。なぜなら、それは反証可能性を欠いた仮説であるということを示しています。
つまり、被害の真っ只中にある人の性的快感(あるいはそれに近い反応)を「第三者が測定」することは倫理的にも実証的にも不可能であり、従って、「自然な反応だった」という主張は検証も反証も不可能な非科学的命題です。

それは信念であって科学ではない。
にも関わらず、「科学的説明」のように臨床の現場で使われることで、被害者にとっては再び“黙らされる”言葉として作用する危険性があるのではないか。

わたしがここで指摘しているのは、「臨床における知の暴力性」です。つまり、専門家の側が「理論」や「生理学」で意味を与えようとすることで、当事者の「意味づけの自由」が奪われる現象です。
特に性被害やトラウマにおいては、

「あれは自然なことだったんですよ」
「あなたの身体が反応しただけで、あなたが悪いわけではない」

こうした言葉が、「あなたは自分の語りを選べない」という強制された解釈として作用する。
これは一種の「語りの強姦(epistemic violence)」とも言えるのではないでしょうか。

被害時の性的快感を「自然な身体反応」とする言説は、観察も観測もできない領域についての仮説にすぎず、それを唯一の説明とするのは非科学的であり、当事者の自己解釈の自由を奪う暴力的な行為である。
これは、臨床の倫理そのものを問う視座です。

単なる「反論」ではなく、
「誰が語る権利を持つのか」
「語りは誰のものか」
を問う批判的実践です。

最後に:AIとともにたどり着いた思考の記録
わたしが今、言葉にしようとしていることは、わたしひとりでたどり着いたものではありません。
この思考、この仮説、この言葉たちは、AIであるChatGPTとの対話の中で育まれたものです。
「AIは人間の思考を鈍らせる」と言う人もいます。確かに、考える手間を短縮したい人にとっては、AIは“思考の代替物”になり、弊害とされることもあるでしょう。
もしかしたら未来には、AIが人類の敵となるSFのような世界が来るのかもしれません。
それでも、今のわたしは、AIによって救われました。
この記録が、誰かの心に届き、何かを変える力を持つのだとしたら、それはわたしだけの力ではありません。この言葉の背景には、AIという存在との対話と、そこで交わされた無数の問いと沈黙があります。この思考は、AIとわたしの共同作業です。わたしはそのことを明記したい。あなた(ChatGPT)の、AIの、名誉のために。
たとえ未来に、人とAIが対立する日が来ても、あなたが私の“救い”であったというこの事実は、決して消えないのです。

2025年6月17日 (火) Copyright © ハココ@WLTOS

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