トランス人権運動と構造の歪み:ポスト構造主義が生む力学の転倒
1. はじめに:わたしの違和感の起点
トランスジェンダーの人権運動をめぐる議論に触れるたび、わたしは奇妙な違和感を覚えてきた。それは「弱者の人権」を掲げる運動のはずなのに、なぜか別の弱者――とりわけ女性――の経験や主張が、軽視され、時に攻撃の対象となる構造である。
この違和感は、アンチフェミニストの言説と、一部のトランス人権運動の論理が、驚くほど親和性を持つという事実に突き当たったとき、一つの仮説として結晶した。
アンチフェミニストの主張の核心は、女性差別の構造的存在を否定し、女性の経験を無効化することにある。一方で、一部のトランス人権運動は、女性というカテゴリーの境界を曖昧化し、「女性の経験」の位置づけを再編する力学を持つ。この二つが重なるとき、三段論法的に一つの構造が浮かび上がる。すなわち、「女性差別の否定」と「女性カテゴリーの曖昧化」は、結果として同じ方向を向いているのではないか、という問いである。
わたしは性被害のサバイバーとして、また障害者として、弱者の権利が真に守られる社会を望んでいる。だからこそ、人権運動の名を借りた政治的利用には敏感にならざるを得ない。そして、哲学という論理の学問が、誠実さを失って利用される現状に憤りを覚える。
この文章は、わたしの個人的な抗議であり、同時に、論理への誠実さを求める問いかけである。
2. 個人の内面と物質的現実は、本質的に一致し得ない
トランスジェンダーの人権を語る人々との対話で、わたしが繰り返し感じてきた違和感がある。それは、議論が常に「個人の内面」に留まり、物質的現実との接続が曖昧なまま進行することだ。
哲学の基本的な問いとして、他者の知覚は観測不可能である。わたしがどのように世界を感じているか、あなたには決して知ることができない。同様に、あなたの内面世界をわたしは観測できない。この観測不可能性は、人間存在の根本的な条件である。
デカルトは「我思う、故に我あり」と述べた。しかし、その「我」すら、知覚でしかないという議論がある。存在の確実性は、実は極めて脆い基盤の上に立っている。
にもかかわらず、わたしたちは社会を営んでいる。なぜか。それは、個々の知覚には一定の「共通認識」があり、物質的現実に対してある程度の合意が可能だからだ。太陽は東から昇る。水は低いところに流れる。人間の身体には生物学的な性差がある。こうした共通認識が、社会の基盤となっている。
個人の内面と物質的現実は、本質的に一致し得ない。しかし、共通認識という中間地帯があるからこそ、わたしたちは社会を成立させることができる。この構造を理解することが、トランス人権運動をめぐる議論の出発点となる。
3. 社会制度は「共通認識」という脆い基盤の上に立っている
社会制度とは、共通認識を形式化したものである。法律、規範、慣習――これらはすべて、「多くの人がそう認識している」という前提の上に成り立つ。
たとえば、契約という制度を考えてみよう。契約が成立するのは、当事者間で「何を約束したか」について共通認識があるからだ。もし一方が「わたしの内面ではこう感じたから、契約内容はこうだ」と主張し、それが社会的に受け入れられるなら、契約制度は崩壊する。
トイレや更衣室などの性別分離施設も、同じ構造にある。これらの施設は、「男性」と「女性」という生物学的性別についての共通認識を前提として設計されている。この共通認識は、歴史的事実、統計データ、心理学的研究によって支えられている。
具体的には、性犯罪の加害者の大多数が生物学的男性であるという統計的事実がある。女性が男性からの性暴力を恐れるのは、個人的な偏見ではなく、構造的な現実への合理的な反応である。性別分離施設は、この現実を踏まえた安全対策として機能してきた。
この基盤が揺らぐとき、何が起きるか。共通認識が失われれば、制度は機能不全に陥る。個々の内面的認識をすべて社会制度に反映させることは、論理的に不可能なのだ。
4. トランス運動が抱える矛盾:内面の不可視性を制度に持ち込むこと
トランス人権運動の核心には、一つの要求がある。それは、「個人の性自認を社会的に承認し、制度に反映させる」ことだ。
しかし、ここに根本的な矛盾がある。性自認とは、定義上、個人の内面的な認識である(つまり、個人の知覚であり、社会の共通認識ではない)。そして、個人の知覚(他者の内面)は別の他者には観測不可能である。
他者による観測が不可能なものを、どうやって社会制度の基盤にできるというのだろうか?
ジュディス・バトラーのジェンダー論は、「人の在り方は他者にも社会にも依存しない」という極端な個人主義に行き着く。バトラーの論理を徹底すれば、「わたしは神だ」と確信する人のそれも否定できないことになる。「私はケルベロスだ」も否定できない。そればかりか、「私は国家元首である」「私は国会議員である」こんな飛んでも論さえ否定できない。
これらは本来物質的実在の共通認識に区分される。
トランスジェンダーという個人の知覚は、物質的実在の共通認識から隔離された知覚だ。それを元に現実社会で生活しているとして、その知覚は物質的実在の共通認識には区分されない。その個人の知覚を基にした生活の実績があるとして、どこまでいってもその基盤、根拠は個人の知覚であり、他者による観測が不可能なものでしかない。つまり社会に共通認識としても持ち込めないものである。
個人の知覚を現実社会に反映させることの混乱は、最終的にはここまで行きつく。

物質的実在の言語によって構築された概念によって私は罪人とされたが、私個人の知覚としては罪人ではない。その物質的実在での罪はポスト構造主義に則れば言語によって構築されたものであり、個人の知覚には干渉しない。よって私は罪人ではない。なぜ否定する?
バカげていると思うか?しかし、これはポスト構造主義の限界を示している。
言語によって世界が構築されるというポスト構造主義の洞察には、一定の妥当性がある。しかし、他者の知覚が観測不可能であるという事実は覆せない。そして、この観測不可能性こそが、逆説的に、共通認識に基づく社会成立の前提なのだ。
トランス運動の一部は、この哲学的困難を無視している。内面の感じ方を物質的現実に直接反映させようとする試みは、反証不可能な主張を社会制度の基盤にしようとする行為である。これは論理的に成立しない。
「わたしは女性だと感じる」という内面的確信を、わたしは否定しない。しかし、その内面的確信を、他者が検証不可能な形で制度化することは、社会の成立条件と矛盾する。この矛盾を直視せず、批判を差別だと断じる姿勢は、哲学への不誠実である。
具体的質問がスルーされる構造
この矛盾は、実際の対話の場面で露呈する。わたしは、トランス人権を主張する政治家に、くり返し具体的な質問を投げかけた。

あなたは自宅の玄関や窓に鍵をかけますか?それはなぜですか?空き巣や強盗をしない人を考慮して、鍵をかけないことを推奨しますか?
この質問は、防犯という物質的現実の問題を扱っている。女性専用スペースの防犯も、これと同じ構造だ。犯罪を犯さない人を基準にした防犯論は成立しない。トランスジェンダーを騙る人の侵入をどう防ぐのか、という具体的な問いである。
しかし、この質問は無視された。
他にも、くり返し問いかけた。
「女性が男性から受ける性的嫌がらせについて、男性が『わかる』と言えるのはなぜですか?」
「トランスジェンダーへの差別が不当であることを、構造的にどう説明できますか?」
「なぜヘイト規制をトランスジェンダーに限定するのですか?わたしがトランス活動家から受けた障害者差別や性被害者ヘイトから、わたしや他の性被害者や障害者は保護されないのですか?」
「哲学によって他の学問を外側から否定することの問題を指摘してさえ、差別と言われた。この学問についての知的不誠実もヘイトの規制によって保証されるのか?」
これらの質問は、すべて物質的現実と論理に基づいている。しかし、答えは返ってこなかった。
代わりに返ってきたのは、「理解してもらおうとしても無理」「彼らの要求は非現実的すぎる」「差別に付き合う気はない」という宣言だった。対話の拒否である。
対話拒否が示すもの
なぜ、具体的な質問がスルーされるのか。
それは、答えられないからだとわたしは予想する。(しかし、他者の知覚はわたしには観測不可能なため、代弁することは決して行えない!)
しかし、これは物質的現実に接続する具体的な問いに答えようとすると、運動の論理的矛盾が露呈する。だから、答えない。答えられないことは明白である。代わりに、「ノーディベート」を宣言する。
しかし、この姿勢自体が、運動の性質を暴露している。
歴史上、真の弱者のための人権運動で、「議論しない」ことを貫けた例はない。女性参政権運動も、公民権運動も、障害者権利運動も、黒人たちの奴隷解放運動も、基本的には論理と対話を武器に戦った。なぜなら、弱者には議論を拒否する力がないからだ。
議論を拒否できるのは、すでに権力を持っている側だけである。「ノーディベート」を貫けることは、その運動が社会構造上の強者によって支えられていることの証左だ。
さらに言えば、
物質的現実を運営する立場にある政治家が、観測不可能な内面を制度化すべきと主張することは、職務上の不誠実である。
政治家の役割は、共通認識に基づく社会制度を設計し、運営することだ。観測不可能なものを制度の基盤にすることは、その職務と矛盾する。にもかかわらず、この矛盾を指摘する質問は無視され、感情的な反発のみが返される。
これは、論理への不誠実である。
哲学への不誠実である。
そして、政治家としての職務への不誠実である。
選択的応答の意味
興味深いことに、すべての質問が無視されたわけではない。揚げ足を取れる相手、感情的な攻撃が可能な相手には、積極的に反応していた。
しかし、構造分析が主である論理的で具体的な質問には、一切答えない。
特に、より脆弱な立場――性被害サバイバー、心的外傷性疾患を抱える障害者――からの質問は、徹底的にスルーされる。
この選択的応答は、何を意味するのか。
それは、論理では戦えないということだろう。感情と道徳的優位性の演出でしか、運動を維持できないことの証明である。
構造的な問題であることを説明できない。その不利益が不当でしかなく、合理的に考えてあってはならないものだと話せない。
解消のためには他の属性を抑圧するしかない。他の属性の人権を制限することになる。そしてその抑圧される属性の話を一切聞かないことを選択する。抑圧すること自体を否定する。
そんな差別があるだろうか?
しかも、この問題の解決において不利益を被るのは女性のみであることもまた、その運動の歪さを表しているだろう。
依然として、男尊女卑社会であることも、トランスジェンダーという在り方をポスト構造主義に則って定義すれば、女性差別を霧散させることに成功する。物質的実在にある社会だからこその構造的な責任を、物質的実在に干渉不可能なはずの事柄で否定するという、極めて恣意的な政治的な運動なのだ。
他者には観測不可能な知覚を基に物質的実在を構築し直すことの正当性を示せる論理は、哲学にさえ存在しない。
ジェンダーにのみポスト構造主義を適用する恣意的な選択は、その運動の起点である哲学の中で否定されることを、運動の渦中にある者たちは知らないのだろう。
無知であることは時に罪となる。
欧米では、戦後最大規模とさえ言われる、トランス肯定医療における「医療的スキャンダル」が次々と明るみに出ている。
英国のカシレビューは象徴的な例だ。長年にわたり、子どもたちに対して実質的に“性自認を疑わない”肯定一択の医療が提供され、その結果、医学的根拠が薄いまま思春期ブロッカーやホルモン治療へ誘導されたケースが多数存在することが明確化した。
医療とは本来、「社会的圧力」や「当事者運動の空気」に左右されてはならない領域のはずだ。
ところが、現実には、政治的潮流によって医療判断が歪められた。
この現象は、単に「判断ミス」では片づかない。
医療は、最も“物質的現実”に根ざしていなければならない領域である。骨は折れれば折れているし、血液検査の値は測定されればその値である。
しかし、性自認を「医療判断の基礎に据える」ことは、観測不可能な内面を医療制度へ持ち込むことを意味する。
この瞬間、医療という領域もまた、物質的現実から切り離されてしまう。
そして、多くの国でいま起きているのは、この医療領域での“切断”が引き起こす反動だ。
北欧を中心として、かつて肯定医療を推進した国々が、次々と方針転換を始めている。
フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、イギリス――いずれも「エビデンスに基づく慎重医療」への回帰を進めている。
つまり、運動側が主張した「内面優先」の論理では、制度も医療も維持できなかったという歴史的事実が、すでに欧米で実証された形だ。
反証不可能な概念を医療が採用したとき、もっとも深刻な影響を受けるのは子どもや脆弱な層である。
政治的圧力や“善意の空気”が医療判断に介入したとき、いつも犠牲になるのは、社会の中でもっとも弱い立場にある人々だ。
日本は、この欧米の混乱を十年遅れで追いかけている。
それなのに、欧米の教訓を参照するどころか、「批判的検討=差別」というレトリックで議論自体を封殺しようとする動きが存在する。
議論が封殺されるということは、制度の矛盾や負の影響が社会に可視化される前に、被害だけが蓄積されていく構造を意味する。
これは、過去のどの人権運動とも決定的に異なる点だ。
たとえば障害者権利運動は、医学的・法的・社会的枠組みを丹念に再構築するプロセスを積み重ねてきた。
女性運動も同様で、統計、公的記録、歴史、社会学、心理学を総動員しながら、構造の可視化を進めてきた。
「物質的現実」から目を背けることはなかったし、内面の主張を制度にそのまま持ち込むこともしなかった。
対照的に、トランス運動の一部が採用している論法は、「内面の不可視性」を前提にしながら、それを制度に直接反映させるという論理的飛躍を前提としている。
不可視であることを盾にしながら、不可視であるがゆえに検証不可能な主張が、制度への強制力を持つ――この構造は、哲学的にも政治的にも不安定でしかない。
ここで現れるのが、「ポスト構造主義の政治的誤用」という問題だ。
バトラー自身の理論には、社会的現実を組み替える際の限界が存在する。
彼女の思想は“社会的カテゴリーの在り方を問い直すための分析ツール”としては有効でも、“制度の基盤に据えるための操作理論”ではない。
しかし、運動の一部は、この区別を理解しないまま、哲学を政治の道具として乱暴に利用している。
ここで生じるのが、わたしがずっと感じてきた違和感である。
女性の経験を不可視化し、女性差別の構造的説明を霧散させ、さらに批判すら許さない空気を作る――その結果、実際に不利益を被るのは、弱者としての女性であり、性被害サバイバーであり、障害者でもある。
これは、本来の人権運動とは逆方向の力学である。
そして、この逆転がいま、欧米ではすでに破綻した形で可視化され始めている。
制度は現実に耐えられず、医療は科学に回帰し、社会は“共通認識”の重要性を再評価し始めている。
日本社会は、この歴史的教訓と向き合う準備があるのか。
物質的現実と、内面世界の不可視性。
この二つを混同したまま制度を組もうとすれば、社会は必ずどこかで破綻する。
現実との整合性を確保できる人権運動でなければ、弱者の権利を守ることはできない。
この点こそ、議論の核心である。
他者には知覚できない認識を事実として扱うことの危険性は、この医療過誤によって証明されたのではないか。
その責任を回避するために、責任を取らないためにと、この運動を続けたくなる気持ちは分からないでもないが、その認知的不協和によって得られるのは、社会の破壊である。
哲学は物質的実在に干渉不可能な論理を構築し検証する学問だ。社会学や心理学は検証可能な学問だが、哲学は論理でしかなく、概念でしかなく、検証不可能性こそがその学問の本質である。
「女性や性被害者を弄ぶな」と宣言しながら、性被害サバイバーからの「トランス運動が性被害者をどれだけ苦しめたか」という訴えは無視する。
「ハラスメント反対」と掲げながら、障害者への配慮を「合法だから」という理由で拒否する。
この二重基準、ダブルスタンダードは、運動の本質を示している。弱者の人権を掲げながら、実際には別の弱者を踏みつけている。そして、その構造的矛盾を指摘されると、対話を拒否する。
トランス運動の一部が抱える矛盾は、哲学的なものだけではない。それは政治的であり、倫理的であり、実践的な矛盾である。内面の不可視性を制度に持ち込もうとすることは、社会の成立条件と衝突する。そして、その矛盾を指摘する声を封殺することは、真の人権運動とは正反対の行為である。
5. 「防犯」問題は、共通認識が壊れたときに何が起きるかの典型
トランス人権運動をめぐる議論で、最も先鋭化するのが「防犯」の問題である。この問題は、共通認識が失われたとき社会に何が起きるかを示す典型例だ。
女性専用スペースは、歴史的事実と統計的データに基づいて設計されている。性犯罪の加害者の圧倒的多数が生物学的男性であること、女性が公共空間で男性からの性暴力に晒されてきたこと――これらは個人の主観ではなく、検証可能な事実である。
ところが、「性自認が女性であれば女性である」という原則を採用すると、この共通認識が機能不全に陥る。なぜなら、性自認は他者に観測不可能だからだ。
悪意ある者が「私は女性だ」と主張して女性スペースに侵入したとき、その主張の真偽をどう判断するのか。性自認は内面の問題だから、外見や身体的特徴で判断することは差別だと言われる。しかし、判断基準がなければ、境界は消失する。
「そんなことをする人は極めて稀だ」という反論があるかもしれない。しかし、制度設計において重要なのは、悪用の可能性を塞ぐことである。性犯罪被害の多くは、わずかな隙を突いて起きる。「稀だから問題ない」という論理は、被害を受ける可能性のある人々の安全を軽視している。
わたし自身、性被害のサバイバーとして、この問題は切実だ。トラウマを抱える女性にとって、男性身体を持つ人が同じ空間にいることは、それだけで恐怖である。この恐怖は、個人的な偏見ではなく、実際の被害経験に基づく合理的な反応だ。
共通認識が崩れたとき、最も被害を受けるのは、すでに脆弱な立場にある人々である。防犯問題は、トランス運動が引き起こす社会的帰結を、最も具体的に示している。
防犯の論理:鍵をかけるという行為が示すもの
わたしたちは日常的に、玄関や窓に鍵をかける。車にも鍵をかける。金庫にも鍵をかける。なぜか。
それは、空き巣や強盗、不法侵入を防ぐためだ。犯罪を企てる人から、自分の財産や安全を守るためである。
ここで重要なのは、鍵をかける行為の論理構造だ。
わたしたちが鍵をかけるとき、「この人は善人だから入れる、この人は悪人だから入れない」という判断はしていない。そもそも、誰が善人で誰が悪人かを、事前に判別することは不可能だからだ。
だから、境界線を引く。「鍵を持っている人だけが入れる」という、客観的に検証可能な基準を設ける。この基準は、個人の内面とは無関係だ。善意の人も悪意の人も、鍵がなければ入れない。この一律の境界線こそが、防犯を成立させる。
もし誰かが「わたしは泥棒ではありません。善良な市民です。だから鍵を開けてください」と主張したらどうか。その主張を信じて鍵を開けるだろうか。
開けない。なぜなら、その人の内面――本当に善意なのか、悪意を隠しているのか――はわたしたちには観測不可能だからだ。観測不可能なものを基準にした防犯は、防犯として機能しない。
防犯とは、犯罪を犯さない大多数の人ではなく、犯罪を犯す可能性のある少数の人を対象にした仕組みである。そして、その「可能性のある人」を事前に特定することは不可能だから、一律の境界線を引く。これが防犯の論理だ。
女性専用スペースも、まったく同じ構造にある。
性別による境界線の必然性
女性専用スペースは、「身体的に男性である人」という、客観的に検証可能な基準で境界線を引いてきた。なぜか。
それは、性犯罪の加害者の圧倒的多数が生物学的男性であり、被害者の多くが女性であるという、統計的事実に基づいている。この事実は、個人の善意や悪意とは無関係だ。構造として、そうなっている。
女性専用スペースという境界線は、「この男性は善人、この男性は悪人」と判別するためのものではない。そもそも、誰が性犯罪を犯すかを事前に判別することは不可能だからだ。
だから、一律の境界線を引く。「身体的に男性である人は入れない」という基準である。この基準は、玄関の鍵と同じ論理に基づいている。
ところが、「性自認が女性なら女性スペースに入れるべきだ」という主張は、この防犯の論理を根本から破壊する。
性自認は観測不可能である。ある人が「わたしの性自認は女性です」と主張したとき、その真偽を第三者が検証する方法はない。外見でも、身体的特徴でも、行動でも判断できない――なぜなら、それらで判断することは差別だと言われるからだ。
すると、境界線が消失する。
注意すべきこととして、観測不可能とは、第三者が事実として確認できないという意味であって、当人が嘘をついているかどうかの問題ではない。
悪意ある者が「わたしは女性だ」と偽って女性スペースに侵入したとき、それを防ぐ手段がなくなる。「性自認を疑うこと自体が差別だ」と言われれば、疑うこともできない。「ミスジェンダリングはトランスジェンダーを自殺に追い込む」と言われれば、通報することすら躊躇される。
これは、玄関の鍵を撤廃することと同じである。
「私の自宅に勝手に侵入しないでください。泥棒なんて以ての外です」と言いながら、鍵を外す。誰が善良で誰が泥棒かを判別する基準もないまま、すべての人に門戸を開く。これで防犯が成立するだろうか。
成立しない。当然だ。
けれど、女性スペースの防犯の話をするとき、必ずと言っていいほどこう返される。
「トランス女性を犯罪者扱いするな!一部の異常者が問題なだけだ!それを理由に排除するのは差別だ!異常者が侵入したとしてそのときに通報すればいいだろ!」
防犯の論理そのものを否定される。未然に防ぐという危機管理の話がさせてもらえない。
彼らの論理を鍵をかけるという防犯に置き換えよう。わたしたちはこう話すことを彼らに期待されている。
「私の自宅に勝手に侵入しないでください。泥棒なんて以ての外。でも、みなさんはそんなことをしません。一部の異常者が問題なんです。その一部の異常者を理由に鍵をかけるなんてことは非道な行いです。何もしない人を犯罪者として扱うことです。私は何もしない人を犯罪者扱いしません。ですから自宅のあらゆる扉に、窓に、金庫に、車に、鍵はかけません。え、もし侵入者や窃盗に遭ったら…?そんなの簡単な話です。その時に通報すればいいだけですよ」
わたしたちは、防犯の話がしたい。損害は未然に防ぎたいのだ。当然の危機管理の話がしたい。
6. ポスト構造主義の限界:反証不可能性と社会の不成立
ポスト構造主義は、性的マイノリティにとって救済の理論となった。固定された性別規範や、本質主義的なアイデンティティ概念を解体することで、多様な在り方を肯定する道を開いた。この貢献は否定しない。
しかし、この理論には致命的な限界がある。それは、反証不可能性である。
反証不可能な理論とは、科学哲学者カール・ポパーが批判した疑似科学の特徴だ。どんな事実を突きつけられても「それは構築されたものだ」「あなたの認識も社会的に作られたものだ」と言い返せる理論は、議論を成立させない。
ポスト構造主義の極端な応用は、共通認識そのものを否定する。すべては社会的構築物であり、客観的事実など存在しない、という立場に行き着く。しかし、もしそれが本当なら、社会は成立不可能になる。
法律も、契約も、科学的知見も、すべて共通認識に依拠している。生物学的性別についての知見が「構築されたもの」に過ぎず、個人の性自認と同等の重みしか持たないなら、医療制度は崩壊する。男女で異なる疾患リスクや薬剤反応を無視できなくなるからだ。
ポスト構造主義は、固定された権力構造を批判する道具としては有効だった。しかし、新自由主義がこの理論を最も巧みに使いこなしたという皮肉がある。「すべては流動的だ」という論理は、企業の社会的責任を曖昧にし、労働者の権利を解体するためにも利用可能だったかもしれない。
同じことが、トランス人権運動の一部でも起きている。女性というカテゴリーの境界を揺るがす議論は、女性差別という構造的責任を曖昧にするために利用可能なのだ。反証不可能な理論は、弱者を守るどころか、強者に都合よく使われる危険を孕んでいる。
7. 現代哲学者への疑問:哲学への不誠実さ
わたしが現代の一部の哲学者たちに感じる最大の疑問は、彼らが哲学という学問に不誠実ではないか、ということだ。
哲学の本質は、論理への誠実さである。前提を疑い、論理の整合性を追求し、矛盾を許さない。この厳密さこそが、哲学を他の思考様式から区別する。
ところが、現代の少なくない哲学者は、新たな理論を発見することもなく、過去の理論の反芻と管理に終始しているように見える。そして、その談話の場に閉じこもり、「哲学っぽさ」を演出することに腐心している。
大して難解ではない構造を、わざと難解な言葉で語る。これは知的誠実さの欠如である。真に理解しているなら、平易な言葉で説明できるはずだ。難解さへの固執は、理解の不十分さを隠蔽する防御機制でしかない。
そして、最大の矛盾は、哲学者自身が自らの理論を体現していないことだ。
哲学は存在の不確かさを証明する。「我思う、故に我あり」という命題ですら、その「我」が知覚でしかなく、存在証明にはならない。ところが、哲学者たちは自らの名を歴史に刻もうとし、知性の承認を求め、学問的地位に固執する。
存在の不確かさを説きながら、自身の存在を誰よりも主張する。これほど露骨なダブルスタンダードがあるだろうか。
哲学者の承認欲求は、心理学として説明可能だ。しかし、それは哲学の本質とは逆行する。哲学が求めるのは、真理への接近であって、個人の名声ではない。
わたしが哲学に惹かれるのは、思考の探求という純粋な営みへの憧れからだ。論理の整合性を追い求め、矛盾を許さず、誠実に問い続ける姿勢。この姿勢を失った哲学者は、もはや哲学者ではなく、「哲学者という職業に就いている人」でしかない。
トランス人権運動の一部が、哲学の理論を都合よく利用し、論理への誠実さを欠いているとき、現代哲学者たちの沈黙は共犯である。彼らは論理の破綻を指摘せず、むしろその談話に加担している。これは哲学への裏切りだ。
8. トランス人権運動の政治利用と、女性差別の無効化
ここで、冒頭の仮説に戻ろう。なぜ、アンチフェミニストの主張と、一部のトランス人権運動は親和性が高いのか。
構造を整理すると、以下のようになる。
- 第一に、アンチフェミニストは女性の構造的差別を否定し、女性の経験を無効化しようとする。彼らの主張は、現実の女性の経験や統計的事実を軽視・削除することで成り立つ。
- 第二に、一部のトランス人権運動は、女性というカテゴリーの境界を曖昧化し、「女性の経験」の位置づけを再編する力学を持つ。
カテゴリーの境界が曖昧になると、そのカテゴリーが受けてきた歴史的・統計的差別の“対象範囲”そのものがぼやける。すると差別の分析が困難になり、構造の責任主体も不明瞭になる。 - 第三に、この二つは結果として同じ方向を向く。女性カテゴリーが曖昧になれば、女性の集団的経験も曖昧にできる。差別構造の説得力が減れば、男性の負担が消える。
重要なのは、これが個人の悪意ではなく、力の流れ方が生む構造だということだ。
アンチフェミニストが強気でいられるのは、論理の妥当性ではなく、彼らが「社会構造のリスクゼロ地帯」にいるからだ。女性差別を否定しても、男性には実害が返ってこない。負担を伴わない主張は、気軽に気楽に強気に話せる。
さらに、彼らは「道徳的優位」を自称できる。「自分は中立で合理的。フェミニストは感情的・過剰反応」という物語を割り当てることで、正しいのは自分の側だという演出が可能になる。
この非対称性は、「境界を曖昧にする言説」との相性が良い。責任は問われず、主張は自由で、批判されても「理解できないお前が悪い」と反論から逃げることすら可能だ。
歴史を見れば明らかだが、真の弱者の人権運動は、言論規制や「ノーディベート」を貫くことができない。社会的に弱い立場にある層の運動が、言論を制限することは、その構造上不可能なのだ。
ところが、一部のトランス人権運動は、強力な言論規制を主張し、批判を差別として封殺しようとする。これが可能なのは、その運動によって不利益を被る層――つまり女性――がすでに抑圧を受けている側であり、権力勾配に不均衡があるからだ。
外見は「弱者のための人権」である。しかし内部では「強者の社会的責任の回避と無効化」が進行する。弱者の人権運動が、別の弱者を叩く武器に加工される。この逆転現象は、個人の悪意ではなく、力の流れ方の歪みが生む帰結である。
9. 個人的な経験からの抗議:障害者差別・性被害者ヘイト
ここで、わたし個人の経験を語らせてほしい。
わたしは解離性同一性障害(DID)とPTSD(複雑性)を抱え、生活保護を受けながら県外の専門的なクリニックに通院している。障害者手帳と障害年金2級、そして障害者支援区分4の認定を受けている。ヘルパー利用なくして生活は成り立たず、通院時には行動支援を利用している。解離性転換性障害という身体化症状と不穏時の不足の事態に備える必要があるためだ。
性被害のサバイバーであり、父親の収監というトラウマも抱え、しかし今年からめでたくパートナーと生活を共にし始めた。
制度的な障壁に様々な事柄を阻まれ、福祉には疾患に対する理解がない。
それでも来年度春の放送大学入学を目指している。10年計画で臨床心理士の資格取得を、そして行政書士の資格も取りたいと願っている。臨床心理学に当事者性を、社会的弱者のために法的知識を――わたしは社会を変えたいのだ。
一方で、SNSでは多様なサバイバーと、性的暴行の被害者とつながりを持てた。みな、社会の無理解と制度の壁による困難にある。そして、独りではないのだと、自分を鼓舞してきた。誇張ではなく、本当にSNSでのつながりがなかったら、わたしは今、生きていないかもしれない。生存をいつ諦めてしまってもおかしくはなかった。
この立場から言う。一部のトランス人権運動は、わたしのような障害者と性被害者を、二重に傷つけている。
第一に、
障害者差別である。解離性同一性障害やPTSDは、トラウマに起因する深刻な精神障害だ。ところが、一部のトランス活動家は、「性自認は精神的なものではない」「病理化するな」と主張しながら、解離やトラウマ反応を「偏見」「差別」「被害者意識」として軽視する。
わたしの障害は、長年の性被害によって脳の機能が変化した結果だ。これは医学的に検証可能な事実である。ところが、「すべては社会的構築物だ」という極端なポスト構造主義の論理は、この事実を相対化し、無効化しようとする。
第二に、
性被害者ヘイトである。女性専用スペースへの配慮を求めると、「トランス差別だ」と非難される。しかし、男性身体を持つ人が同じ空間にいることへの恐怖は、トラウマ反応として正当なものだ。
わたしたち性被害者は、安全な空間を必要としている。それは贅沢ではなく、生存のための最低限度の配慮ではないのか。被害者であることは自己責任ではない。治療が困難にあることも自己責任ではない。ところが、この配慮の必要性を話すことが「差別」として攻撃される。
「性被害を差別に利用するな」
「PTSDを差別に利用する卑怯者」
「差別をしなければ社会で生きていけないなら自宅に閉じこもって外に出るな」
なぜこの二重の傷つきが起こるのか。
それはポスト構造主義的な“内面の絶対化”が、他者の身体性やトラウマ反応を押し流す力学を持つからだ。内面が全てなら、身体の脆弱性や安全確保の必要性は“些末な障害”として扱われる。
そうして、心理学を根拠を示さず否定する知的不誠実さが正当化される。心理学的研究や、トラウマ研究の知見を「構築されたものだ」と一蹴しながら、自らの主張には何の実証的根拠も示さないことが、あたかも何ら問題はないとすることを社会に強いる。
この内的な知覚を絶対のものとしたとき、社会は成立しない。混沌だけが存在する。
物質的実在という共通認識によって成立する現実社会に、観測不可能な個々の知覚を基盤にせよと迫ることは、如何なる法律も規則も無効化されるべしという論理である。それを一部のカテゴリ(今回はジェンダーというカテゴリ)にだけ適用したことの論理と哲学への不誠実が引き起こす事象さえ、哲学は論理的に解き明かすことが可能である。
この社会運動には、学問への敬意がない。論理への誠実さがない。そして、その不誠実を指摘すると、「理解が足りない」「勉強不足だ」と人格攻撃に転じる。
わたしは、真の弱者のための人権運動を支持する。しかし、人権運動の仮面を付けた政治的利用は、明確に否定する。そして、哲学と論理への不誠実に憤る。
しかし、わたしにここまで、哲学としてトランスという在り方と社会との接続性について深く思考する機会をもたらしたのは、まさにその不誠実である。その点については、率直に感謝している。思索のプロセスは、わたしにとって純粋に刺激的で、楽しい時間だった。
10. 結語:哲学とは論理への誠実さである
哲学とは何か。それは、論理への徹底した誠実さである。
前提を疑い、矛盾を許さず、反証可能性を担保する。どんなに美しい理論でも、論理的整合性がなければ棄却する。この厳密さこそが、哲学の本質だ。
トランス人権運動の一部は、この誠実さを欠いている。哲学的主張を説いているのにも関わらず、その論理に不誠実を貫いている。反証不可能な主張を繰り返し、批判を差別として封殺し、論理的議論を拒否する。哲学を基にしているのに、哲学の基本を怠る。これは哲学への侮辱である。
現代では、少なくない哲学者たちが、この不誠実を看過している。いや、むしろ加担している。自らの学問的地位を守るために、論理の破綻を指摘しない。これは哲学者としての責任放棄だ。
わたしが求めるのは、論理への誠実さである。
トランスジェンダーの人々が困難を抱えていることは認める。彼らのための支援や配慮は必要だ。しかし、それは論理の破綻を正当化する理由にはならない。
内面と物質的現実の不一致は、乗り越えられない。共通認識なしに社会は成立しない。観測不可能なものを制度の基盤にはできない。これらは論理的事実であり、感情や善意で覆せるものではない。
真の人権運動は、批判に開かれている。なぜなら、弱者の権利を守るには、曖昧な論理では足りないからだ。
一方、政治的利用された「人権運動」は、議論を拒否する。批判を封殺し、感情に訴え、論理を放棄する。なぜなら、その目的が真実ではなく、権力だからだ。
わたしは、論理への誠実さを求め続ける。それが哲学の本質であり、真の人権運動の基盤であると信じるからだ。
性被害サバイバーとして、障害者として、社会の底辺から這い上がろうとする者として――わたしは論理を手放さない。論理こそが、弱者を守る最後の砦だからだ。
感情は操作される。善意は利用される。しかし、論理は裏切らない。矛盾は矛盾として残り、虚偽は虚偽として暴かれる。
だから、わたしは問い続ける。あなたたちの主張は、論理的に整合しているか。反証可能性はあるか。他の弱者を犠牲にしていないか。
哲学とは、この問いを手放さないことだ。
そして、真の人権運動もまた、この問いに耐えられるものでなければならない。
わたしは、論理への誠実さを求める。それが、わたしの抗議であり、願いである。

