論考「正義中毒の社会において成立するジャーナリズムとプロパガンダ性」

論考

ジャーナリズムと善意の欺瞞

ジャーナリストといえば、社会正義のために巨悪を暴く、というイメージもあるかと思う。それでこそジャーナリストとしての存在意義だ、という感じに。

本当にそうだろうか?

たとえば、巨悪を暴くことが社会的に広く流通した媒体で行えるのか?という課題。

社会に広く流通しているということは、その資本が社会の他の業界と切り離せない状態にあるということ。いわゆる「しがらみ」だ。日本で特有の言葉で説明するなら「忖度」か。

その最たるものが、テレビや新聞といった、現代のSNSではオールドメディアと揶揄されるものである。そこにあるものが、政府の関与を切り離せないことや、公式のプロパガンダとみなされることに、わたしは疑問は抱かない。

しかし、では雑誌媒体はどうか?
それらが、ビジネスとして成立することが目的であるなら?

そこにあるジャーナリズムと名乗るものは、社会に迎合したかたちとなることは否定できない。そしてそれらも規模に比例し、さまざまな業種と切り離せないものとなる。しがらみが生じる。つまり、暴くべき巨悪から関与を受けざるを得なくもなる。

その根幹はやはり「金」だ。ビジネスとして成立することがどうしても必要である。そのとき、雑誌媒体は、社会への迎合を主軸に構成せざるを得なくなる。社会が望む形態の巨悪を暴くストーリーをなぞることになるのだ。
雑誌媒体、その他、ビジネスとして成立が目的が軸にあるメディア媒体は、多かれ少なかれ、普遍的な倫理を主軸とすることより、社会が望む正義への迎合が必要となるのが残念ながら構造的な事実だ。
しかし、社会問題の深層、深い倫理の物語は、社会から望まれていない正義にある。社会の多くの人にとって不都合な事実である。それらを突きつけられることに、一般市民は心理的な安全を守れない。
市井の民が求めているのは、自分の立場が危ぶまれることのない、ちょうどいい具合、いい塩梅の正義や道徳である。簡単に言えば、自分が悪として裁かれることがない話題。市井の民にとって“も”敵だと定義できる相手の悪行を暴くことでしか、ビジネスとして成立させることが目的のメディア媒体は行えない。

つまり、ビジネスを行っておるすべてのメディア媒体が、風見鶏であり、日和見菌的な力学から降りられないのだ。

では、現代における真のジャーナリズムとはどこにあるのだろうか?

もしジャーナリズムをプロパガンダから切り離したものであると定義するなら、ジャーナリズムなんてものは存在しない。
普遍的な倫理に忠実な主張さえ、ある意味ではプロパガンダである。
では、ビジネスと切り離せばプロパガンダ性はなくなるのか?
そんなことはない。すべての事柄がすべての個人が、社会にはたらきかけるとき、ビジネスモデルとしての確立とは無関係にプロパガンダ性を帯びてくる。

極論、すべての発信者が、それぞれにプロパガンダを流通させているのが現代社会だ。
つまり、すべてのジャーナリズム的な行いと発信にプロパガンダ性がある。

極端に聞こえるかもしれないが、歴史は常に一番人気の思想を正義とし、道徳として成立させてきたに過ぎない。そして残酷なのは、それが必ずしもすべてにおいて正しい選択ではないということ。歴史では、いつ如何なる正義もより脆弱な存在を救い得ることには成功していないということ。市井の民は、より弱い存在を踏みつける側に立ってきた。そして、その行為が正義として流通していることに、疑いを持たない。それが歴史の常態だった。

では、その中で何が相対的にマシなのか、より誠実なのか?それらの判断は、常に読み手の思考力や知識の質や量、あるいは倫理観に依存する。
ただ、その媒体の規模や属性である程度の分類は可能だ。

まず第一に、テレビや新聞という大手メディアは、公的なプロパガンダとしての役割にあることに疑問はない。つまり、政治的、国家としてのプロパガンダ性がある。

次に、ビジネスとして成立させることを主軸のした会社という形態を取るメディア媒体は、社会への迎合の色が濃くなる。それらは、社会が望む形式のプロパガンダを流通させていると言い換えることが可能だろう。

では、ビジネスとして成立させることを主軸とせずに発信することに重きを置き続ける発信者がいるなら?それは、個人の思想家と呼ばれたりするのかもしれないが、そのとき社会への迎合が排除されることを考慮すると、他者への迎合がないという点は、個人の信念として評価されるだろう。

ここで課題となるのは、本来、どの媒体、どの形態でも、普遍的な倫理に基づいた発信は可能だということ。

しかし、現実として、現代における政治は普遍的な倫理と相性が良いとは言えない。
また、社会が望む正義は、先述したが「ちょうどいい具合、いい塩梅の正義や道徳」でなければならない。それは必須条件となることは、人間の心理構造として説明可能である。つまり、会社という形態を取り、ビジネスとして成立させることを主軸としたメディアで流通させられるのは、「自分が悪として裁かれることがなく、市井の民が敵だと定義できる悪行」だ。つまり、それは政治的な課題に限定される。
構造的な問題として、構造的暴力を暴くことは、あらゆるビジネスとしてのメディア媒体に不可能なのだ。社会的に脆弱な存在が苦しめられる構造は、購読者に対する告発となる。

もし、購読者、視聴者の動機が真に「社会をよくすること」であるなら、自分に向けられた告発とも向き合うことが可能だろう。
しかし、実際にはそうではない。誰もが自身が加害性を持つ存在であることからは目を背けておきたい。だからこそ、その話題は広く社会にビジネスとして成立する形態に成り得ないのだ。

ここで少し視点を変える。
同じような構造を持つものとして、日本では心的外傷性疾患、つまりPTSDや解離性障害が障害年金の対象から外されている。
多くの場合、その人たちは他者に害されたことによってその状態にある。その責任を負うべきは、第一に加害者であり、第二に社会だ。なぜなら、加害者は加害した存在であり、加害者と被害者は社会の一員であるためだ。自分に責任がないのに深刻な状態にある社会の一員である人への救済は、社会がすべきことのはずである。
しかし、現実には、加害者にのみその責任を負わせることを(少なくとも日本の)社会は推奨している。結果として、被害者はその回復を自身ですべて負うことになる。(障害年金の対象になく、効果のある治療のほとんどが自費であることがそれを証明している。)

これは、通常の生活困窮者が生活保護を受けることとはわけが違う。同じ社会的弱者として比較するのは論理として不当にあたる状態だ。

これは深刻な社会問題だ。社会の構造的な問題である。しかし、被害者を救済しない責任を社会の問題だとし、自身がその対象を救わないことの問題を構造として理解してしまうことには多大な苦痛と体力が必要となる。そのため、そこに市井の民が向かい合うことには困難が生じる。告発対象に自身が含まれるからだ。

ところが、もしこの問題が「経済損失」あるいは「経済利益」として提案されることになれば、人々は急に気楽に、そして重大かつ深刻な問題として向かい合うことを始めるだろう。構造的暴力としてのそれは何一つ変わらないままに、その結果としての経済損失や、支援することへの経済利益という一部分だけに焦点を当てると、それらに対処することへの心理的ハードルはぐんと下がる。
それどころか積極的に対応したくなる。理由は簡単だ。それらが自分事として提示されたからだ。自分が他者を救わないでいる加害者として告発されたのではなく、他者を救い得る善人としてクローズアップされたこと。もっと言うなら、提示されたことが「経済損失/利益」という、まるっきり自分と無関係ではなく、関係しかない事柄だったため、無視はできないとなれるのだ。

多くの人々は、受け取りたいことだけを受け取る。
考えたいことだけを考える。

とりわけ、人間は自分が道徳的ではないという指摘に耐えられない。自身の善性の否定に耐えられない。道徳的劣位にあるという指摘に耐えられないのだ。ここには矛盾が生じている。
もしその人が本当に道徳的であり、真の善性があるなら、直ちに向かい合い改善すべきだと話すこと、そのための行動に出られるはずなのだ。
しかし、実際には、多くの人々は現在の自身の立場がすでに完全なる善であり道徳的であることに固執する。その立場を揺るがされるとき、それを否定することに終始するのだ。

指摘された事実があることは否定できない。つまり反証による否定は不可能なのだ。そのため、その指摘を否定するときは、その事実が存在することそのものを否定することになる。
そのときに使われるのは、指摘した人の態度や姿勢を否定する人格攻撃や、議論に応じないことを正当化するための、相手の指摘が理解不可能な事柄であるとする文言のくり返しである。

ここに大きな矛盾がある。それは、道徳や善性の基盤である倫理の原則に対する反抗を、道徳や善性を主張する社会が否定する状態だ。
見えてくるのは、「社会は倫理原則に基づいた道徳を望まない」という社会倫理の転倒である。

ジャーナリズムと善意の欺瞞についてに戻る。
ジャーナリストは「我こそは正義を示す者である」とでも言いたげに、大手メディア媒体で自身が取材した内容を語る。あるいは、雑誌メディア、オンライン媒体で自身の職業として、ビジネスとして成立させている。「我こそは正義を語る者である」という立場はジャーナリストという職業をビジネスとして成立させるために必要不可欠な仕草ではあるが、その不可欠性は購読者、視聴者が望む道徳と倫理を提供しているという立場表明としての機能でもある。

はて、本当のジャーナリズムとは何なのだろうか?
ジャーナリズムは生きているのか?死んだのか?
ジャーナリズムはオワコン化したのか?単なる変化か?
それとも、ジャーナリズムは社会に殺されたのか?

様々な事柄が時代の変化に適応している。社会に適応して変化している。
子どもが大人になることは社会への適応である。社会で生活するための最適化を成長と呼ぶ。
しかし、ジャーナリズムは社会に適応してしまえば、その意義を失う。
ところが、文明が発展した現代における社会問題は、これまでのジャーナリズムでは扱いきれなくなっている。
そして、ジャーナリストが個人チャンネルを開設するという現象があるのだが……、それらを生活ための主な収入源とするとき、いったいどこまでを扱えるのだろうか?

現代では生活自体に苦労する人は減った。代わりに極端な格差がうまれた。暴くべき巨悪は、いまやかつての特権階級に留まらず、市井の民という特権性に及ぶ。
しかし、市井の民はいまだに自身は暴かれる側にはないとしている。巨悪を暴かれることに恩恵を受けるだけの側だとしている。
ジャーナリズムは市井の民に受け入れられてこそのものだ。読んでいて心地よくないもの、そして無視しても自身に被害が及ばないものは無視することが可能なだけの暮らしがある。

誰もが自身の生活を良くするための情報を求めている。同時に、多くの人は、自身への告発という心理的安全を脅かす行い、その自分の生活を良くすることとは関係ない情報は必要としていない。
構造的暴力の加担者としての市井の民を告発する行為は、普遍的な倫理に従ったものだ。しかし、それは歓迎されない。

この社会に、本当の倫理や道徳が存在していないことは、明らかではないのか。ジャーナリストと市井の民の関係性、その力学は、残酷な事実を説明している。

もし、ジャーナリストを生業とする人たちに自身の生活と、ジャーナリズムとしての行いの両立を目指す良心があるなら、この構造を市井の人たちが理解しやすい形への変換をして、流通させてこそではないだろうか。

社会が望む記事を書くだけなら、それはジャーナリストと、ゴシップ記者の違いは、その構造的力学としてもはや存在しないのではないか。少なくともその差異に誇りを抱けるほどもものは失われつつある。


注意:本稿は、特定の人物を批判することを目的としたものではない。社会正義が「商品」として流通するときに生じる構造そのものを論じる。

タイトルとURLをコピーしました